この場所に来るのは何年ぶりだろう、と彼女は1人、嗤いながら言った。
誰にも知覚できない世界。彼女はその場所をずっとそう呼んでいた。世界のどこにでもあって、どこにでもない世界。渡ることも、見ることも、普通の人間では不可能。行ける者がいるとしたら、そいつはもう人間の範疇を超えた者か、先天的な破綻者だろう。そうでなければここには辿り着けない。
「『私』はどっちなのかしらね…」
彼女は自分の半生を振り返る。別段英雄のように活躍したこともない。かといって、最初から壊れていたわけでもない。自分はいたって普通の少女だった。いや、彼女の普通は普通ではなかった。なぜなら……
彼女は多くの民の前で、魔女として処刑されたのだから。
彼女は後天的破綻者だった。とんでもないモノに見初められ、自ら異能の力に身を染めた。彼女の親はそれを訝しんで彼女を幽閉した。幽閉といっても何もない部屋に閉じ込めるという、押し置きめいたものだ。幼い彼女にはそれで十分と判断したのだ。が、実態は違った。彼女の力すでにそんな檻で留められないくらいまで肥大化していた。彼女は自由を得るために、必死になって力を行使し、そうしてこの場所に到達した。
この場所こそ、神のおわす場所。かつて、すべての世界を創造して、去った神が創った異界。自らがいる場所として、定めた世界。多くの人々が求めてやまない理想郷。
彼女はその時点でそこに行ってしまった。才能があったのだろう。そのまま彼女は数年間、世界から「消失」した。
彼女が戻ってきたのは本当に偶然だった。彼女は幼さを保ったまま、再びこの世界に舞い戻った。だが、そこには彼女を守ってくれる存在はいない。彼女の親だったモノに、彼女は魔女として告発された。
どうして?
彼女は終始その発言をした。幼さが残る彼女にこの結末は辛すぎた。自分が愛していたものすべてに裏切られた。彼女はそのまま処刑された。生きたまま火炙り。それは想像に絶する苦痛だろう。が、彼女はそれに耐え切った。彼女は純粋なままで、1度死亡し、こうして蘇る。彼女はすでに世界から愛されていた。世界は彼女を永遠に生かし続けた。かわりに、彼女には役割が与えられた。彼女は神々の手となり、世界を存続させるものとなった。
だが、彼女はこの結末を受け入れなかった。
彼女にとって、愛されていない世界は苦痛だった。愛に対して愛で返す、それが彼女の理想だった。彼女にとってこの世界は歪んでいた。世界が彼女を愛しても、彼女は世界を愛せない。やがて、彼女は自分の本当の役割に気づく。彼女の役割、それは…
「この世界をもう一度作り直す。偽者の神を処刑して、本当の神を呼び覚ます」
彼女は決意のように呟く。彼女は本当の神兵だ。本来彼女に神を殺すほどの力はない。しかし、彼女は愛されていた。世界は彼女に新たな力を与えた。
「もういかなきゃ…」
彼女は黒いコートを羽織る。フードつきの大きめのコート。他人からはもう表情は掴めないだろう。彼女は見えない扉で、この世界から退場する。その先には、彼女を待つ人という人。彼女はそれを見てうっすら微笑を浮かべる。
――さあ行こう。今日はいよいよ、宣戦布告をするときだ…
彼女は高らかに、彼らに対し宣言した。彼女の肢体が空に舞う。彼女は誰に告げることなく、言葉を風に乗せた。
「…今宵。『私』は神でさえ殺せる死神になる…気をつけろ…」
遠くには、海。そして、山。眼下には大きな屋敷。
死神が、半月の夜空を舞う。

体のざわめきで目が覚めた。内側から襲ってくる気持ち悪さで、目を閉じられなくなる。■はゾンビのようにむくりと起き上がり、ゆっくりと床の上に降り立った。別段乾きはない。だから、衝動も沸いてこない。なんとなく散歩がしたくなって、ベランダから、外に飛び降りる。屋根伝いに散歩。実際は歩いているのではなく、ジャンプだけど。
やがて、もう1人の自分に出会う。とある学校の屋上。恋焦がれる恋人のように、自分が自分を待っている。■はそこに降り立つと、自分を見据えた。フランス人形のようなドレスを羽織り、自分が自分を見つめている。先に喋ったのは、相手だった。
「こんな時間に散歩なんて珍しいわね。どうしたの?アレが蠢いたの?」
いやなことを指摘する。全くその通りで、今、■を駆け巡っているのはそれが蠢く感覚だった。
「…終わり…近い…黒百合…どうする?…」
■は黒百合に問う。自分と同じ苦しみを持つものとして、聞いておきたかったことだ。黒百合はそれを聞いて耳をぴくぴくさせると悲しそうな、それでいてすぐにでも嗤いそうな表情を浮かべ、
「どうもこうもない。私はそれを受け入れるだけ。私の存在はあなたの陰。すべてを受け入れる陰性。なら、やることはひとつでしょ?それに…」
そこで1拍おき、こちらに強い視線を送る。
「私には何もない。私は陰であるが故に、誰にも気づいてもらえない。だから、終わりが来たとしても、あなたと違って私はひっそりと終焉を迎える。……あなたは抵抗するの?白梅」
僕はただ、わからないと答えた。そして、今の生活を失いたくないことも。
「それは幻想よ、白梅。私たちに幸せは訪れないのはわかっているでしょう?…私たちが何のために生まれて、何ためにここにいるのかを覚えているの?手違いはいろいろあったけど、本来の役目を果たしなさい。あなたがやるべきことは、それだけよ」
その後、少しだけ寂しい表情をして、
「ただ、あなたが望むのなら、それ以外の道を見つけたいのなら、手伝ってやらないこともないわよ。だって、私はあなたなんですもの。いくら否定しようともそれは変わらないもの。…別に勘違いはしないでよねっ!私はあなたの幸せなんてどうでもいいんだからっ!私は自分が陰だって理解しているだけだからっ!」
最後だけとってつけたような回答。僕はそれに微笑んでしまう。…ああ、彼女は昔と変わらない。
「…ありがとう…黒百合…もう…帰るね…」
僕は元来た道を戻ろうと、振り返る。
「待ちなさいっ!」
「…?」
僕が振り向くと、黒百合は自分のお腹を触りながら言った。
「私ももうすぐだって気づいているわ。だから先に言っておく。もし、あなたがとんでもないことをしたのなら、私はあなたを止めるために動くから。……例えば、あなた自身が傷つき、やがて死ぬようなこととかね。そんな状態になったら、私は私の意志を貫くわ」
その言葉は、僕にとっての枷になるだろうと、このときは思った。部屋に戻る。月が町をほんのりと照らしている。ダークブルーの中に溶け込む自分が、なぜか気持ちよかった。いつのまにか吐き気が治まっていた。
ベッドに戻る前に、一度だけ、同居人たちの寝顔を覗いた。術を使い、空間を繋げる。少しだけ、中のものが動いた。力を使うとあの子は動く。昔はあまり気にしていなかったけど、最近は特にその動きが激しい。お腹を片手で押さえる。息が嫌でも荒くなった。それを抑えて、寝顔を見る。
まずは、今まで共にいた仲間たち。悠久のときから、一緒にある人に仕えていた、2人の親友にして、家族。
次に、新たに僕らを迎えてくれた人たち。共に戦い、苦しいものを乗り越え、今ここにいる家族。
最後に、僕の一番大好きな人。今の僕が一番に守りたい人物。失いたくない、大切な宝物。家族を超えた存在。
一瞬、意識がトンだ。絶頂を迎えたような感覚。
力の使いすぎだと自覚する。体が急速に力を失う。術はその瞬間に消え去る。そのまま秘所から、何かわからない液体を垂れ流した。顔を赤くしてしまう。恥ずかしいからそうしているのかも、わからない。
僕はそのまま怖くなって、力が入らない体を鞭打って動かし、ベッドの中に潜り込んだ。芋虫のように丸まり、自分が元に戻るのを待つ。
体中から汗が流れる。波打つ感覚は体を芯から貫き、背筋は衝撃としか言いようもない感覚に支配される。足は痙攣し、瞳孔は焦点が合わない。口をまんぐりと開き、涎を垂れ流す。秘所から出る液体は際限がない。おむつをぐっしょり濡らしているのも気づいている。
でも、止められない。体は快感を求め、腰を動かしてしまう。相手が居ないのにもかかわらず、その行為は止まらない。トメラレナイ。
また、イッた。
体の中から、何かが蠢く気配。そいつは僕が快感を覚える度に、嬉しそうに動く。きっと、僕が乾くのはこいつのせいだろう。だって、こんなにも喉が渇いている。けれど、僕は衝動に耐えた。好きにはさせない。僕は、僕の家族を守る。あのとき、家族として受け入れてくれた、みんなのためにも。僕は、負けない!
3度ほど快感が過ぎて、体が落ち着く。汗が寝巻きに纏わりついて、気持ち悪い。尻尾が、耳が、小刻みに動く。さっきの残りが、出ているようだった。それを噛みしめるようにして、僕は再び眠りの底に落ちていった。僕は、このままだと、本当に…

懐かしい夢だ。わしでもそんな夢を視るのだろう。きっとこの前、懐かしい奴にあったからじゃろう。それは、わしがあの方に仕えていたときの話。
奴と出会ったのは、そう、まだ寒い如月の十六夜のことじゃった。その日、あの方とたまは仕事で京を離れ、わしが屋敷の守をしていた。屋敷は陰陽士にしては大きめの館。あの方には奥方はおらず、親戚が主に屋敷を使っていた。
「おや、いなりさんかい。坊主はたま坊と仕事か」
「はい。私が今、この家をお守りしております。浅潟中納言は、これから内裏へ?」
「ああ。なんでも帝が寝付けないとうるさいらしい。俺は寝物語が得意と知られているかな。白羽の矢が立ったということだ」
この人の名前は言成浅潟。あの方の弟で正五位の中納言。型破りの人だが、帝や院の信頼は厚い。さらに武芸に長け、刀だけならば私と同じぐらいの強さだ。武士の豪快さと、貴族の優雅さを併せ持った人。私は、この人を気に入っている。
「ご注意ください。今、外は野武士と物の怪で物騒ですから」
「心配ありがとよ。けど、俺の刀の腕、知ってるだろ?安心しなって」
浅潟中納言は、そういってハッハッハッと笑いながら手を振り、去っていく。
それが、私が記憶する、彼の生きている最後の姿だった。
月を眺めながら、酒を飲む。今日は少しだけ欠けた十六夜。十五夜には劣るけど、飲むのには悪くない月だ。惚けるように眺めた月は、黄緑色だった。暑くなって、ちょっとだけ単を脱ぐ。別に周りに人もいないし、少し肌を曝しても、気にしない。耳と尻尾がぴくぴく動いた。どのくらい経っただろう。月が天頂から去り、西に落ち始めたときだった。
「…1人で飲むのは、淋しくないの?」
澄んだ、銀色の声が聞こえる。声の聞こえるほうを見ると、そこに銀色の髪を持ち、水色の瞳が輝いている少女が、塀の上に立っていた。右手には弓。左手は、何かを抱えていた。服装は萌黄色の袿。耳と尻尾が、彼女を狼と教える。
「…お酒はみんなで飲むものだよ。狐さん」
少女は私に諭すように言った。私は返す刀で答える。
「余計なお世話ですよ。一緒に飲みたいヒトが、今ここにいないのですから。それに、気まぐれですから」
私は杯に口をつけ、無視することにした。少女は塀から降りてゆっくりと近づく。見えにくかった左手で抱えたものが見えてきた。
一瞬、酔いが覚めてないからだと思った。
だってそうでしょ?理解できないもの。あそこにいるのが、どう見ても、
浅潟中納言の死体だったから。
「ん?この人知ってるの?私と戦って壊れちゃった。匂いを辿ってきたらここだったから来たけど、知り合いなら、はい、返すね」
浅潟中納言の死体を無造作に放り投げた。ごろんと、転がり、軒下で止まる。見事な死体だったと思う。左肩口から右腰に一閃。一撃だ。顔は驚愕しか読み取れない。きっと自分より子供にやられたことが驚愕なったんだろう。そのまま一瞬。そんな顔だった。私は彼に近づき、弔いの言葉を掛け、彼と少女の間に立つ。
「…殺ったのは、お前だな?」
眼で殺さんとばかりで睨む。狼はそれを見て驚くように眼を開き、その喜ぶように眼を細める。
「…そんな眼をするヒト。私初めて」
少女は弓を構え、こちらを見据える。私は、今にも飛び出さんと牙をむき出しにして、息を吐いた。
「本当に…ゾクゾクしちゃう!」
少女は武者震いなのか、手が震えていた。少女はさも親しそうに、こちらに話しかけた。私も同じように言う。
「私の名前、覚えてほしいから、言うね。私の名前は…」
「貴様を殺す奴の名を教えてやる。私の名前は…」
――『吾妻森疫呼狼(あづまのもりのやころう)』。
――『小野雅天松原稲荷命(おののみやびのあままつばらのいなりのみこと)』
そう、これが最初。わしと奴が出会った最初の時。
私とヤコは、同時にお互いを殺さんと、爆ぜた……。