「真琴ちゃんはね、もう頑張らなくていいの。全部投げ出したっていいの。逃げたっていいの」
言葉が暖かく胸に染みていく。胸の中から溢れだしたぬくもりはやがて涙に代わり、瞳からぼろぼろとこぼれ落ちた。
ずっと寂しかった。本当は甘えたかった。でも誰もそれを許してくれなかった。
親も、先生も、友達も。自分自身でさえ優等生の仮面を彼女に押し付けた。逃げ場のない気持ちはゆっくりと心にヒビを入れて、冷たく無機質な場所に本来の彼女を押し込めてしまった。
でもそれも今日まで。これからは自分の心をこの人の中において置けるのだ。嘘も見栄も世間体も何もかも捨ててしまって。
「あ、う――」
嗚咽と共に流れだすぬくもり。それはもう一つの涙のように静かに流れ、優しく少女を暖めていった。
優等生系美少女が従兄弟のお姉さんに甘やかされる話(仮題)
8月の空からさんさんと太陽の光が降り注いでいる。日差しに焼かれたアスファルトの上にはカゲロウがたちのぼり、遠くの景色をゆらゆらと揺らしていた。
「ふぅ、ふぅ……」
緩やかな坂を登る一人の少女。白いワンピースとリボンのついた大きな帽子をかぶり、息を切らせながらトランクを押している。
少女の名前は如月真琴(きさらぎ まこと)。都会のとある進学校に通う18歳だ。
「分かってはいたけど、遠い……」
仲の良かった従兄弟のお姉さんが事業で一山当てて田舎に引きこもったのは三年前のことだ。彼女の新居の近くにはバス停も何もなく、駅からは徒歩で1時間半もかかるというとてつもない田舎――。
「むしろ秘境かしら」
ともかく交通の便のすこぶる悪い場所に彼女は住んでいた。普通は駅まで迎えに来るなりするはずだが、人里まで降りるのが面倒くさいという彼女の主張のためそれも期待できなかった。
「いくら人嫌いだからってここまで徹底することはないでしょうに……まあ気持ちは分からなくもないけど」
彼女の財布に群がる有象無象たちを思い出しながら真琴は小さくため息をつく。
「おばさんの法事の時とかひどかったし……汚い親戚の連中がお金をよこせって迫ったりして……」
……思い出したら腹が立ってきた。そんなに金が欲しけりゃ自分で稼げ、妖怪どもめ。
心のなかで呪いながら真琴はトランクを押す。
そうしてぼちぼち歩き続けること20分。
「あれかな?」
目の前に真新しい洋風の建物が見えてきた。2階のベランダからはTシャツと短パンという夏らしい格好をした女性がぶんぶんと大きく手を振っている。
「真琴ちゃん、ひさしぶりー!」
「あはは……」
相変わらず元気そうな人だ。真琴は苦笑いしながらベランダの人影に向かって小さく手を振った。
「いやー、ごめんね。こんな辺鄙なとこまで来させちゃって」
「いえ、いいんです。私が来たかっただけですから。小夜姉さんもお元気そうですね」
「元気も元気、最近元気が有り余っちゃって困ってるわよ」
通された居間で麦茶のグラスに口をつけながら真琴の親戚のお姉さん――如月小夜(きさらぎ さや)は朗らかに笑った。
「まーこっち来てから毎日が楽しくってねー。都会で人に揉まれながら生きてたころよりずっといいわ」
「そうですね、小夜姉さんにはこっちのほうが合ってると思います」
真琴も麦茶のグラスを傾けながら返す。窓から外をちらと見やると抜けるような青い空と白い雲だけが見えた。
「何もないでしょ?若い人には退屈かもしれないけどそれがいいとこよ」
「いえ、すごく素敵なところだと思います」
朝の喧騒も電車の音も、車もテレビも携帯も何もかもが遠い、隔絶した小さな世界。真琴にはそれが夢の様な場所に思えた。
「そっか」
それに小夜は少し照れたように笑って窓の外を見やった。
風の音と裏山の木々のざわめきだけが二人を包む。しばらくして真琴はふいに小夜の横顔を見つめている自分に気がついた。
短く切りそろえられたショートカットの茶髪。やや茶色がかかった瞳。耳には小さな銀のリング。ちょっと大きめのTシャツの胸元からは――
「ちょ、ちょっと姉さん!まさかノーブラですか!?」
「うんそうだよー。別に家の中だし、真琴ちゃんも気にしないでしょー?」
「え、いや、その、そういうのはっ」
顔を真っ赤にしながらしどろもどろになる真琴を小夜がにやにやしながら見ている。
「いいじゃんいいじゃーん。家の中なんだし気にしないのー。別に脱ぎたかったら脱いじゃってもいいのよ?」
「ぬ、脱ぎませんっ」
真琴は気分を落ち着かせるように麦茶を一気に飲み干して大きく息を吐いた。
「女の人なんですから、そういうのは良くないです。身だしなみは自分の心の有り様を写す鏡ですから、いつでもきちんとするべきだと思います」
「むー、そんな固いことばっかり言ってると肩こっちゃうわよー。折角の夏休みなんだから少しくらいフリーダムな気分になってもいいと思うよ?」
「夏休みだからこそ、気を抜かずにいるべきなんです。そうしないとすぐにだらけてしまいますから」
「んー、まあそういうのもありっちゃありだけどさー……」
まあそれはそれとして。そう言って小夜は椅子から立ち上がった。
「晩ご飯、何か食べたいものある?肉でも魚でもなんでもいいよ?」
「魚……あるんですか?ここ、結構山の方だったし、近くにスーパーも無かったと思うんですけど」
「いや、ネットで頼んだら今日の夕方頃に配達されるの。鮮度も悪くないし、こういうのも結構便利なものよ?その気になれば大トロだって取り寄せできるんだから」
ふふん、と胸を張る小夜に真琴は釈然としない表情を返した。
「しなくていいことをしないのは大事なことなのよ?無理に買い物行かなくても食材が手に入るならそれに越したことはないでしょ」
「いや、まあ……」
楽こそ正義よ、正義。そう言ってノートPCを立ち上げ始めた小夜を見やりつつ、真琴はトランクの中から問題集と筆記用具を取り出し、勉強を始めた。
夕飯は結局サバの味噌煮と炒めものだった。
「まさか本当に届くとは思わなかった……」
夕飯の後片付けをしながら真琴は半ば呆れたように言った。小夜の言うとおり、昼ごろに注文したサバは夕方ちゃんと届けられた。配達の人が上下高そうなスーツでぴしっと決めてた理由はよく分からないが、まあそういう業者もあるのだろうと納得するように務める。
「お金さえ出せば大体のことは出来るのよ。逆に言えばそれで済むならそれで済ませちゃえばいいの」
「でも何だか……」
不満そうというか、不服そうな顔をする真琴を、小夜がまたにやにやしながら見ていた。
「何となく気持ちは分からなくもないけどねー。何となく他と違うことしてるのが意味もなく気持ち悪く思えちゃう時って誰でもあるし。特に自分の中でこうしなきゃって強く思う人ほどそう思うのよね」
まー、あたしにとっちゃそこら辺はあんまり大事じゃないけどねー。
小夜は冷蔵庫から缶ビールを取り出してぐびぐびと飲み始めた。
「真琴ちゃんも飲む?」
「いえ、未成年ですし。それにお酒って飲んだことがないので」
「え?お正月とかこっそり飲ませて……いや、まあそこら辺はどうでもいいか」
小夜の顔に少しだけ暗い影がさした。真琴はそれに困ったような笑顔を浮かべる。
「いいんです、それもきっと私のためですから。私だってそれが正しいことだって分かってますし」
「……」
小夜は何も言わずぐびり、とビールを飲んだ。
真琴が食器を片付ける音だけが静かに響く。
(肩、小さいな)
小夜はなんとはなしに真琴の後ろ姿を眺める。腰まで伸びた長い髪。白いうなじ。あまり筋肉のない身体。飛んだり跳ねたりすることを知らないような華奢な手足。
(聞き分けのいい子のまんまで大人になっちゃったみたい)
年頃の子に恋や遊びの一つもさせずに勉強ばっかりさせて。親や先生の言うことだけ聞くのが理想の子供ってか。アホくさい。
「……お姉さん?どうかしましたか?」
ふと気が付くと真琴が心配そうな顔でこちらを覗きこんでいた。いけない、思ってたことが顔に出てしまっていたようだ。
「ん?あ、あー。ちょっと変なこと思い出しちゃって。なんか久々にお酒飲んだらちょっと酔っちゃったのかな?あはは」
「そうですか?大丈夫ならいいんですけど」
「あーもう、そんな顔しないで。本当に何でもないの。あ、そうだ、アイス食べようよアイス。ガリリガ君でいい?」
冷凍庫からアイスバーを二本取り出して一本を真琴に渡す。真琴は、いただきます、と言ってアイスの封を切った。
「折角だしそっちの庭で食べようよ。こっちは星がすごく綺麗でさー」
居間の隣の部屋を横切り、二人して庭の側にあるウッドデッキに腰掛けてアイスを舐める。
頭上には満点の星空。明かりが殆ど無いのでどんなに小さな星でもはっきりと見える。
「すごいですね」
「でしょー。田舎のいいとこってこういうとこよねー」
いつの間にかアイスを食べ終えた小夜はまたビールに口をつけている。
小夜もしばらくすると食べ終わり、少しだけ喉の乾きを覚えた。
「あ、そうだ。これあげるよ。この前買ったジュースで結構美味しいやつ」
にしし、といたずらっぽく笑いながら小夜が缶を差し出した。缶のパッケージには果物の盛り合わせの絵が描かれている。真琴の知らないパッケージだったが、とりあえず一口飲んでみた。
「あ、美味しいです」
「飲みやすいでしょ?あたしもそれ結構好きなんだよね」
こくり、こくりとゆっくり味わうように飲んでいく真琴を嬉しそうに見ながら、小夜は新しい缶に手を伸ばした。
「ね、真琴ちゃん。真琴ちゃんってさ、夢とかあるの?」
「夢ですか?実はまだあんまり考えたことがなくて。とりあえず、勉強を頑張っていい大学に入ろうとは思ってます」
「……そか」
「周りも頑張ってますし、私ももっと頑張らなきゃって思うんですけど、なかなか順位が上がらなくって。お父さんもお母さんにもこれ以上心配かけないようにしなきゃいけないのに」
「いやいや、何言ってんのさ。真琴ちゃんくらいの子なんて心配も迷惑もかけてなんぼだって。あたしはもっとこう、自由にワガママに生きたっていいと思うよ?」
「でも期待を裏切るわけにはいかないですから」
真琴は俯きながらそう言った。
「もう、子供じゃないんです。周りの人たちに甘える訳にはいかないんです」
「……」
それきり互いに沈黙する。
「……」
「……昔はよく、おねーちゃんって呼んでくれてたのになー」
沈黙を破ったのは小さな小夜の呟きだった。
「覚えてるかなー、真琴ちゃんが幼稚園入る前くらいにあたしが真琴ちゃん家に遊びに行った時、何をするにしても後ろにとことこついてきてさー」
「……」
「あたし、一人っ子だから妹ができたみたいですっごく嬉しかったんだよね。真琴ちゃんにおねーちゃんって言われると胸の奥がグッとなって、もう持ち帰っちゃいたいくらい可愛く思えちゃって」
小夜は夜空を見上げながら独白のようにして言葉を続ける。その目は空に輝く星々よりもずっと遠いどこかを見ているようだった。
「それは今でも変わってないし、これからも変わらないと思う。真琴ちゃんはいくつになってもあたしの大事な妹なの。だから、せめてここにいる間くらいは甘えてくれたって、ワガママ言ってくれたっていいんだよ」
「……」
真琴は俯いたまま答えない。小夜の独白は続く。
「周りの目なんて、ここには無いからさ。またあの頃みたいに甘えてくれたら、おねーちゃんも嬉しいなって……真琴ちゃん?」
その時、こてん、と小夜の肩に真琴がもたれかかった。
「ふふふ、なんだか昔みたいだねー」
「すぅ、すぅ、すぅ……」
耳元で聞こえる真琴の寝息。今度は起きてる時にそうして欲しいなー、と苦笑しつつ小夜は真琴の手から缶を外してその身体を抱きかかえた。
「重くなったねとか言ったら流石に怒るわよねー」
寝室に真琴を運び、ベッドに身体を横たえて毛布をかける。すぅ、すぅ、と規則正しい寝息に合わせて小さな胸が上下に動いていた。
「おやすみ、また明日ね」
ぱたん、とドアを閉じると部屋の中は薄闇に包まれ、すやすやと眠る真琴だけが残された。