日が少し傾き始めた頃、東京の西部、23区の外れに存在する総合学校が騒がしくなる。小等部や大学から解放された学生が、キャンパスに放たれたからだ。僕らのいる学校――桜ケ丘学園は小中高大全てを内包する巨大な私立学校だ。街の半分を占める土地に点在する学校群は、いろんな分野の学生をその中に内包している。僕らのいる本校系統はそれらの学校の中心であり、富裕層のご子息を抱える「エリート」系学校という側面も持ち合わせている。そんなクラスでは今…………
「はい!というわけでうちのクラスの出し物は演劇にけってーっ!」

クラスのムードメーカーの少女――結の声が高らかに響き渡る。それにつられ歓声や嬌声。野太い声を上げ唸る学生たち。なんというか、すっごいノリノリだった。遠巻きにそれを見ながら、僕は心の中でため息をつく。エリート学校とか言いつつも、実態はそこらの学校と変わらない、いや、もしかしたらお金とか自由に使える分悪化しているのかもしれない。

「で、何やるんだい?流石に童話の焼きまわしはだめだろうけど」

守人の意見に目を、正確には眼鏡を光らせた人物がいる。鋭い眼光を皆に向けると、その少女はニタリと得意げに笑った。結はその少女のほうに目を向け、少女の名を呼ぶ。

「どしたの?しーりん。なんかいい案でも思いついた?」

しーりんと呼ばれた少女は少しだけ顔を赤くするとコホンッと咳を挿み、

「だからしーりんはやめなさいと言っているでしょう?それだから補習行きになるんですよ、天童さん」

と嫌みのようなものを追加して返す。それに気づいていないのか結は「えへへ〜。あたしバカだからさー」と暢気なことを言っていた。おいおいとクラスの半分ぐらいが突っ込むが、それもまたスルーされ、

「しーりんって文芸部と演劇部と漫研といろいろ掛け持ちしてたよね。なんかいい案でもあるん?」

「だからしーりんはやめなさいと言ってるでしょう!………まあ、私、実はやりたい舞台があるんですよね。結構有名なんですけど」

「なに?なにするの?恋愛もの!?」

「食いつきすごいですね。いや、まあ、恋愛もの…なんですけど」

急にしーりん――御伽ヶ原 詩織がどもった。頭に?マークを浮かべる結に、僕らも同調した。いったいどんな話なんだろうか。皆が期待のこもった眼で詩織を見つめる。詩織はごくりと唾を飲み込み、おずおずとしゃべりだした。

「………源氏物語、です。私が、やりたいのは」

沈黙。喧騒が波のようにひき、みんなの顔が「あー…」というふうになっている。対する詩織は顔を真っ赤にしながら、

「なんですか!?その反応っ!べ、別に私に深い意図とかないですよっ!!ただ、守さんに抱かれたいとかそんな淡い期待で……ハッ」

とものの見事に自爆テロをした。男子の半分が「腐ってやがる…早すぎたんだ…」と呟き、女子の半分が「これって百合になるのかしら…」とか漏らしていたが気にしないことにする。そして、名前が出た当の本人は、

「え?僕は胸が大きいから平安美人とかできないぞ」

と見事に夢壊す不届き発言をした。男子の視線のほとんどが揺れる胸に向かったことは追記しておく。

「平安人って胸小さいの?かわいそー」

結は相変わらずといった暢気な口調だ。それを見たオカルト大好き少女――黒澤 麻紀は小さく、

「やっぱりうちの学校は馬鹿ね」

と呟いた。なんかみんなその言葉を聞いて納得するように頷いている。そんな姿を見ながら、僕は心の奥で突っ込んだ。いや、偏差値すごく高かったけどこの学校。と。

 

 お兄ちゃんが出るまでどこで待とうか――それが真琴の今ある問題だった。高校と小学校の終わる時間は違う。よって、彼女は高校が終わる時間までどこかで暇をつぶすことになる。太陽が傾いてきているとはいえ、気温は簡単に真夏日を超え、猛暑日まで至るのではと感じさせるものだった。そんな暑い日差しを浴びて、線の細い真琴がフラフラになるのは10分もかからなかった。もともと北国に近いところで生活していた彼女だ。暑さに弱いのは明白だった。

「ふぃ〜…頭がやかんになっちゃうよー」

日差しを避けるために木陰になったベンチに腰掛け、ランドセルを横に置く。小都市に近い桜ケ丘学園は学校内に様々な設備を擁し、さらにその敷地は一種の中央公園のような扱いとなっていた。また、効率的運用からグラウンドは共通のところが多く、小学校、中学校、高校と敷地をあえて区切っていない構造となっている。もちろん、セキュリティは通っている生徒の関係から一際頑丈だが、一度許可を出すとあっさりと入れるようになるのだ。

「まったくだにゃあ……肉級を焼きそうににゃるぅ…」

空気に溶けた自分の言葉に返答がきて、真琴は慌てて声のする方角に目を向ける。そこには家族同然で暮らす、猫耳と猫尻尾をもった少年が同じようにベンチで茹だっていた。

「たま……ちゃん…?」

驚きをもってその名を呼ぶと、たまは「にゃ?」と反応して、

「うんにゃ。なんか風が変わったから来てみたにゃ!」

と元気よく応対した。歯を見せ得意げに笑うその顔は、幼い少年の無邪気さと勇敢さを感じさせる。

「風が…変ったの?」

通りは熱風が時折吹くが、別段特別な様子は見られない。しかし、たまは真琴に体を摺り寄せると、

その体が共に宙に舞った。

真琴は理解が追いつかず、ただぐるりと回る景色だけを眺めていた。スカートが一瞬捲れておむつが露わになるが、そのことすら気付けないほどの急な動きだ。たまは真琴を抱えて道路に降り立つ。陽炎を生み出すアスファルトを滑るように動き、その勢いをいなした。彼は鋭い視線を先程まで座っていたベンチに向ける。真琴は自らを掴むたまの手の力が強くなったのを感じた。彼女は歯を剥きだしにし、獣のように唸る彼を見、そして彼が見るベンチを見る。

ベンチは真ん中で見事に寸断されていた。線のように真直ぐ、2人が座っていた所だけを切断されたベンチは、ようやく重力に合わせて落下した。横のランドセルが中央に向かって転がり落ちる。ガタンと音がし、ベンチはその用途がなされなくなった。そして、その後ろに、前髪を下ろした少女がいる。背格好から中学生ぐらいだろうか。凛とし佇まいは彼女が武芸者であると教えてくれる。前髪を深々と下ろし、その視線は窺えない。後ろに結ったポニーテールは、微かな風に乗り、振り子のように揺れていた。

「誰…?」

真琴は戸惑った口調で少女に呼びかけるが、少女は口を開こうとはしなかった。ただ、その手に握る刀が、水平に構えられる。その無駄のない動作に怯える彼女を、たまは支えつつ抱き寄せる。

「真琴。離れちゃダメにゃ」

たまは少女を見据えた。うーっと唸り、爪を輝かせ、少女を威嚇する。少女はそんな彼の行動を無視して、体を深く沈めた。自然とした動きに一瞬呆気にとられ、しかしその瞬間、視界が大きく右に跳んだ。

 斬撃が、斜め横一線に振るわれた。

熱くなった空気を割るように、150センチ程の刀が風切り音を奏でながら薙いだ。貯めた力で空に浮き、空中で刀を振るったからだ。その反動のままぐるりと回り、少女は横向きに、たまのいるほうに着地する。対してアスファルトを蹴りつつ間合いをとるたまは、少女を見つめその様子を窺っていた。同じように真琴も少女を見る。空気が混ざり合い、一陣の風が吹いた。スカートが風によって捲られそうになるのを押さえながら、彼女の一挙手一投足を注視する。

…あれ、あの人…

真琴はその時、少女への違和感を覚えた。あまり戦闘に出ない自分が感じた違和。だが、それが何かが分かる前に彼女はまた体を小さくし、そしてこちらへと爆ぜた。剣士特有の静かな間合いの詰め方。それは人外の存在であるたまの動きに追いすがるほどだった。

「真琴っ!ちょっと待ってるにゃっ!」

たまは抱いていた真琴を下ろし、反動で向かってくる少女へと突進する。刀の間合いより内側に行けば、たまの方が有利となる。地を這うように突進したたまに対し、少女はその前進を止め、足のバネを使って同じように後退した。

「間合いが……!」

思わず真琴は声を上げた。いなりに聞いていた話ではたまの間合いは最も短く、故に前に出ることが最大の防御らしい。そのたまと距離を開ける行為。足の負担がかかることなのにそれを表情1つ変わらずやる少女は、十分な間合いが確保できたと見るや、足を止めて居合のポーズを取った。腕を軽くしならせ、間合いに入るもの全てを割断するその攻撃は、一切の容赦なく、たまに振るわれる。

 

 高等部の生徒会室で、書記の少女――皆川 双夜は体を揺らした。

「あら、貧血ですの?」

副会長の合法ロリ――高野谷 雪音は小さな体が埋まるような書類を整理しながら、双夜を気遣った。双夜は「大丈夫だ」と前置きし、

「副会長。私はちょっと用事を思い出したのだが」

「あ、いってらっしゃい」

と受け答えをして、生徒会室から出ていく。相変わらず事情を聞こうとしないのは、信頼されているからだろうか。と双夜は一度生徒会室に振りかえり。その中にいる副会長のことを思った。あんな小さな体をしている割に、執務能力や裏方への根回し、部活動連合会への緩衝役などのサポート役は完璧にこなしてくれるのだ。気苦労も多いのに、支えてやれずすまないなと懺悔し、彼女は自分を「高校生」から「剣士兼陰陽師」へと切り替える。

「黙っていろ馬鹿」

銭湯部のロッカーにより剣を取り出すと、上着のポケットにいるお札が騒いだ。それを怒鳴りつけて静かにさせると、急いで胸騒ぎのする方へ向かう。

(先程の揺らぎ…あれは学校の外縁にある探知結界に穢れが侵入したときのもの…!)

彼女は汗を風に靡かせながら、学校内を疾走した。

 

たまに振るわれた攻撃は、空を薙いだだけで終わった。刀の間合いギリギリでたまが大地を強く踏み、空へと跳躍したからだ。二次元的な攻撃に対し、たまは三次元的な機動で対応する。

「危ないことするにゃっ!」

たまは空に踊らした体を少女へと叩きこむ。刀を振るった後の伸びきった体では、防御の体勢すらとれないようだ。これを好機とばかりに、たまの勢い余ったタックルが直撃する。少女はかはと肺から空気が押し出され、体を地面へと叩きつけられた。

思ったよりダメージがすくにゃい!

無意識に受け身を取っていたのか、少女にはダメージはあまり見られなかった。ならばとたたみ掛けの一撃を振るおうと体をマウントさせたまま右手を大きく振り被り、たまは少女を見据えた。少女は肺に空気が抜けたせいか、少しだけ動きが鈍かったが、抵抗するように身じろぎする。その時、彼女の前髪が身動ぎと共に揺れ、その視線が露わになった。

数秒ほどの、沈黙。

お互いに視線を交わし、たまは自然と歯噛みした。少女はその瞳で目標の表情変化を読み取り、反撃とばかりに体を動かす。馬乗りになったたまの背中へと膝を叩きこんだのだ。

「ぐぅ…」

苦悶の表情でたまは大地を滑った。勢いを利用して飛びあがり、足を地面に対し踏み込めるように着地した。すぐさま反動とバネで、体は少女の方向へと向かう。空を裂く、直線の機動。ネコ科特有のしなやかな伸びのある走りによって、間合いは容易く詰められる。荒くなる息。獰猛な脈動。狩りの本能。

それを…にょみこむっ!

獲物を追い詰めるその喜びを抑えつつ利用し、たまは少女へと肉薄した。無言のまま、少女の刀が下段へと構えられる。すぅと息を吸ってその体を整えた少女は、地を這う獣を狩るために、両の足のインターバルを広く取った。横への一閃。起き上がる相手を捉えられるように、手首の力は抜いてある。

……本当はすごいんだろうにゃ。けど……

たまは心の中で少女のことを思った。先程の視線の交わし合いで、たまは彼女が襲ってくる原因を知ったからだ。

操られてるにゃら、勝機はある!

少女の視線に、意思を全く感じなかった。遠くを見るような、ぼんやりとした視線。焦点が定まっておらず、呆けているような感覚。本来武芸者であるならば、こちらを射殺すほどの殺意があるはずなのに、それを一切感じない。まるで糸で動かす人形のように、彼女は自分の力を誰かに使わされている(・・・・・・・・・・・・・・・)そんな気配だ。

「だから…」

たまは小さく呟き、その足を止めた。本来なら待ちの体勢に入っていた少女は、その行動を不審に思うはずだ。しかし、少女は動じず、こちらの出方を窺っている。それこそがたまの狙いだと、気づいていないようだった。

「こっちも少しばかり搦め手を使うにゃ!」

 

少年はその爪を空に振った。爪から生じる空気の刃が、大地を抉り少女の方へと向かう。その数は2つ。少女の体をバターのように切断する刃を、少女は刀を横一線に振るいかき消した。刃と刃がぶつかり合い、風が暴れる。少女は一瞬だけ辛そうな顔をしたが、大きく体を踏みこませてその刃を断ち切った。

「………」

残り香のような荒れ狂う風が、少女のスカートをめくる。しかし、少女はその行いですら邪魔だと言うのか押さえようとしなかった。振り切った体をすぐさま戻し、軸を元に戻す。一連の行為は次の行動に移るまでを、円滑にさせるものだ。少女はそこで風が静まると同時に刀を下ろし、辺りを見回し始めた。その視線の先にいるはずの少年が、どこにもいないからだ。周りには少年の姿はなく、遠くに彼の残した幼い少女が見える。少女はその疑問を処理できず身構えると、少年の声が身に届いた。

「とったにゃ!」

真上!?

少女は逆光になっていてよくは見えない視界の中に、1人の影を見つけた。それは大きく尻尾を揺らして滞空時間を取っている猫の妖魔の少年だ。彼はこちらを見据えるとその体を大きくしならせ、2本の腕を、その先にある10本の爪を、大地に向かって躊躇いなく振りおろした。

 

 落ち着いた音楽が流れる店内で、セムルトはコーヒーを口に含んだ。

……まずい。なんだこの煮えたぎった泥水は。こんなものをコーヒーと呼んでいるのか極東人。舌が本当は馬鹿なんじゃないか?

目の前にあるに黒い泥水とどう格闘しようかと思案し始めていたセムルトは、来店を告げる鈴の音に気がつき、居住まいを正した。

「……待たせたわね、セムルト」

「貴方はいつでも自由奔放だな、カルナ」

「私はエルフよ?エルフが人に縛られるなんてありえないわ」

一先ずの挨拶が終わり、透き通る純度の翅を生やした少女――カルナが反対側に腰かけた。

「で、久しぶりで言うのもなんだけど、何か用かしら?」

紅茶を頼んだカルナの言葉に、セムルトは眉を顰めた。

「何の用だと?――決まっている。それはあなたも分かっているはずだ」

徐々に語感が強くなる彼に、カルナは肩を竦めて返した。

「あら?私は別に貴方たちと慣れ合うために組織に入ったわけではないわ。解るわよね?

――私は、いえ私たちは自分の目的のためだけに行動しているだけだもの。お互いを利用するだけ利用する。それが暗黙のルールのはずよ?利害関係だけで繋がった存在。それが私たちのはず。………違ったかしら?」

「それは違わない。いや、それ以外があっては困る…というところか。我々は常に利用し、利用され、関係するものであるからな」

セムルトはそこで一息入れ、

「だが、今回は別だ。我々の『望み』は違えど、『手段』は同じであったはず。そして、今回は極上の手段が手に入る。おそらくではあるが、な。

 つまりだな。貴方には我々に協力すれば、あなたの『望み』は叶うのだよ」

と断言する。言い終わるとその余韻で、空気が静まり返った。セムルトは思う。彼女ならこの言い方で乗らないはずはない。絶対に食いつくはずだ。なぜなら、

………彼女の望みは、魔法でなければ、叶わないのだ。

その確信がセムルトにはあった。しかしカルナの対応は、セムルトの予想を超えて、

「ああ。それなら心配いらないわ?

 ――私の『望み』、すべて叶えてもらったもの。もう貴方たちと係わる必要はないの」

拒絶を示すものだった。

「!?馬鹿な!?まさか、カルナ貴様ぁ!」

「五月蠅いわね。それが大人の出す声かしら?あ、そこに置いといて頂戴」

カルナはこちらの言葉を流し、紅茶にミルクを注ぎ始めた。まるでもうこちらに興味がないかのような態度で、紅茶のミルクや砂糖のほうに意識を集中させている。

「で、私は『救われた』から、貴方たちのことはどうでもいいわ。こっちは新しいことで忙しいの。せっかくの呼び出しだけど、お断りするわね」

とどめの一言を受け、セムルトは腰を上げた。目の前の妖精は、もう役立たずだ。これ以上は時間の無意味と判断して、彼は店を立ち去ろうとする。

「一つだけ忠告」

立ち去る背中に、声が掛けられた。それはこちらを心配するような音色だ。妖精の言葉は人を惑わすもの。しかし、それは時に真理を示す。それを思い出し、セムルトは振り返らずに足を止め、その声に耳を傾けた。

「貴方たちがやろうとしていることは、神に喧嘩を売るようなものよ。覚えときなさい」

なんだ。そんなことか。

「……それぐらいの覚悟、背負えなければ魔術を学ぼうと思わん」

「そう。なら、お別れね。バイバイ。復讐者」

「ああ。

――良き旅路を。放浪者」

退出を告げる鈴の音が、熱した空気に響いた。

 

 双夜が風の吹きすさぶ音を頼りに森を抜けると、そこには3人の見知った顔がいた。1人は親友にして副会長の妹君の友人の妹――なんか紹介がややこしいな――の、神島 真琴だ。彼女は腰を抜かしているのか地べたに尻餅をついて、その先の激選を呆然と眺めていた。風の度にスカートが捲られて下に穿いているおむつが露わになるが、当の本人は反応すらせずに震えていた。本能の恐怖だろうか。怯えた獲物がどう動いていいかわからず、身震いしているような、そんな風に感じた。

「大丈夫か?」

声をかけると、真琴は目に涙をためてこちらに抱きつく。相当に怖かったらしい。裾を濡らしながら大きな声で咽び泣き、双夜に助けを求めた。双夜は背中を優しくさすり、

「大丈夫だ。今は私に任せて欲しい」

「…ほん、と…」

「あそこにいるのは私の後輩だ。きっと勘違いでもしているんだろう」

「……そうなの、かな。えっと、あの」

真琴が離れ、ぐじゅぐじゅになった顔のまま一礼し、

「気を付けてください」

「君も、終わったらそれ、換えなければな」

「ひぃあっ!」

耳としっぽを同時に出しながら、彼女は自分の体を隠すように手をクロスさせた。ぷくぅと膨らみ、少しばかりずり落ちたおむつがスカートの端から顔をのぞかせる。双夜は努めてそれを見ないように目を逸らし、気まずくなって頬を一掻きした。親友から話を聞いているし、実際に会ったことがあるとはいえ、未だにこの子たちには慣れない。双夜はどうしたものかと思案して、なんとなく母親がよくやってくれたように真琴の頭を一撫ですると、真琴が弾けるように顔を上げた。驚きと安堵、そして信頼の表情をこちらに向ける。

「…早く顔を直した方がいい。それまでに、終わらせる」

双夜は自らに課すような宣言をした後、体を2人の方へと向けた。1人は横にいる少女の「家族」、末島 たま。そしてもう1人は銭湯部の後輩にして、妹弟子の、伊達 木葉だ。いつもおとなしめだが、悪や邪と言うものに敏感で人一倍嫌う、正義に生きる少女。澄んだ水のような性格は、私にとっても好ましいと思えた。そんな少女が今、一心不乱に「敵」と戦っている。妖と勘違いしているように見えるが、なんかいつもの彼女とは、違うように感じた。

……どの道、近づけばわかることだ。

「では、参ろうか」

腰に構えた刀をさすり、自分自身に問う。震えもない。怯えもない。あるのは、純然たる目的と意思、それだけだ。

……なら、なにも怖くない。

双夜は己を確かめると、剣と爪が踊る戦場へと介入した。

 

刃が交差する。

 空を裂いた爪の刃が、少女に当たる前に空で激突した。指向性の風が行き場を失い、暴風となってあたりに吹き荒れる。

……にゃんにゃ!?

風に身を捻り、衝撃を和らげながら着地したたまは、己の為した攻撃が予想と違う裂け方をしたことに戸惑った。本来なら、風は一方に集中的に裂け、その勢いで彼女の意識を奪うつもりでいたのだ。それを横からの一撃で妨害された。

「そこまでだ。2人とも」

正面に、刀を構えた少女が立つ。先程までの少女とは違う、それでいて似通った佇まいを見せる存在。守人と同じ服を着込み、しかし、彼女よりも年上らしい落ち着いた声色を持ち、そして最近、「あるおつかい」の時に助けてもらったことのある人物だ。

「……双にゃ?」

「双夜だ。そんなファンシーな名前ではない」

新たな少女――双夜はつり上がった双眸をこちらに向けた。剣士にして陰陽師と言う変わった経歴だが、その腕は確かなのは以前のことで知っている。

「腕を下ろしてくれ。ここは私が預かろう」

双夜に指摘されてたまは、ようやく自分がまだ、戦闘態勢を解いていないことに気がついた。無意識に上げていた腕を下ろすと、居住まいを正す。心臓がまだ激しい脈動を打っている。体の中に籠る力は疼き、早く動けと、戦えと、本能がざわついている。それを解くために、たまは大きく深呼吸をした。体の力を抜くように、緊張をほぐす様に。いつもの、朗らかな自分に戻すように心を整えていく。

にゃにゃっ!?おしっこが…

と同時に、体も弛緩したのか、一気におしっこがおむつの中へと迸った。一度出てしまったらもう制御できない。下腹部を重くし、瞬間の温もりと安らぎを与えるそれが、おむつの中に満ちていくのを感じる。またおむつ換えないとにゃーと、たまは暢気に考えていた。

「木葉もだ。アレ…いやこの子は怪異ではない。この子は…」

双夜が振り返る。今まで戦っていた少女――木葉はどうやら双夜とは知り合いのようで、双夜は親しい間柄のような気さくさで話しかけていた。対する木葉はまだ構えを下ろしていないようだった。たまはそこでハッとなる。そうだ、木葉は、操られているのだ。今不用意に彼女に近づいたら……

 木葉の刀を握る手が今一度強く握られた。

 

大上段に構えられた木葉の刀は、冴えた切先を以て、双夜へと袈裟に斬りつけた。

 

鮮血が、舞う。

何が起きたのだろうか。いや、何が起きてしまった(・・・・・・・・・)のだろうか。わからないけど、自分が鮮血を撒き散らしている存在だというのは、理解できた。ああ、紅いな。ああ、痛いな。薄れゆく意識の中で、私は目の前の、自分を斬った存在を見た。その子は血を浴び、体を朱に染めながら、私のことを見ている。虚ろで、焦点が合わない目で。ああ、そういうことか。閉じる前、私は心の中で彼女を慰める。あなたのせいじゃないのに、どうして、そんなに泣いているか、と。

 

空白の後、人が倒れる音を聞いた。鮮血を浴びた殺人者が、その向こうで立っている。顔に生温かいものがついた。血だ。そこに倒れる少女が出した、紅の液体。ああ、だめだ。もう、だめだ。制御(ガマン)できない。あんな現場見せられたら、怒る(ヨロコブ)のは当たり前だ。だから、仕方ない。体がざわつくのも、心がざわつくのも、仕方ない、事なんだ。

 

 遠くの気配に、いち早く感ずいたのは白梅だった。今、みんなで薫の迎えのために学校に来ていた。調子に乗って探検するとか言い出したたまは放っといているが、それ以外はみんな学校の校門付近で静かに待っている。通りを過ぎゆく学生には、薫は混じっていなかったし、真琴も交じっていなかった。だからちょっとがっかりしていた時、体の中に嫌悪感を伴って、ある感覚が届いた。

「……たま…ダメ……っ」

それは信頼すべき家族であり、仲間である存在の闇が、解放されたときに出る感覚と、同じものだった。走るような負の感情。本能を呼び覚ます情動。それら全てが迸るように洩れだし、辺りの獣を恐怖させる。体が震えた。本来なら、自分(うさぎ)たま(ねこ)に狩られるのが普通だからか。恐怖により体が震えるのを、白梅は無理やり抑え込んだ。

「白梅、ここにいるのじゃっ!」

いなりが同様に感づいたのか、飛び出す様に学校の敷地内へと入った。白梅は祈るようにその姿を見送ると、見る見るうちに遠ざかり、角を曲がって見失った。夕子も感じていたようで、白梅の横に来てその体を掴む。

「大丈夫、ですよね?また、争ったりなんてことは…」

不安から出る言葉に、白梅は返すことができなかった。そう、白梅は理解していたのだ。自分が原因で、このようなことが起こったということが。

「…………」

白梅は夕子に気づかれないように、拳を握った。

――守らなきゃ。此処にいるみんな。守らなきゃ。薫の大切なもの。絶対に、守らなきゃ。

決意を内に込め、白梅は遠くにいる家族の無事を祈る。

 

 遠くで、懐かしい感覚が響いた。喧騒の響く学校の中、男は歩いていた。この学校は、怪異の巣窟だ。鬼に異空間、さまよえる魂にまつろわぬ神さえ存在しうる。

「まあ、だからこそ私のような存在が隠れることができるのだが」

1人嗤うように言って、角を曲がる。長い廊下には、横にドアがいくつかついており、そこから野太い男性の声が漏れ出ていた。男がいるのは、学校の中でもひときわ大きい、「シンボルタワー」と呼ばれるビルだ。最上階には学生食堂も存在する法学部の校舎だ。今、その34階で彼は、ある資料を手に入れるために動いていた。それは、かつて自分がいた場所に関する資料だ。そこにある忘れものを取りに行くために、彼は奔走していた。

「………いるのだろう?出たらどうかね」

エレベーターホールに入り、彼は振り向かず言った。

「やっぱり敵わないなー。気配は『完全に』遮断したのに」

促されるように、何もない空間から少女が出てくる。両の腕に腕輪をつけ、周囲に6つの宝玉を漂わす少女は、その純白の髪を揺らしながら男の横に並んだ。男はその姿を確かめると、相も変わらない小ささに、フッと息を吐いた。

「今、笑ったわね」

「ああ。いい加減その少女趣味、止めたらどうだ」

「五月蠅いわね。これが気にっているの」

少女は腕を組み不機嫌そうにそっぽを向いた。数秒そうしていたが、右側の金色の瞳でこちらの様子を窺うそれは、見た目通りの幼い少女のままだ。

「私は急ぐ。用がないなら失礼するよ」

エレベーターの扉が開いた。男は入るが、少女は動かず、男の動きを見つめていた。

「……そう。聞かないの?あなたが探しているもの、私は知っているわよ」

「いい。これは自分に対するけじめでもあるからな。自分で探さなければ、意味もない」

少女との応答が終わり、扉は閉じて下へと向かった。1人になった男は、瞳を閉じ呟いた。

「いなり、たま、白梅。今、迎えに行く」