今日の空は、遠くまで見渡せそうなぐらい、透き通っている。学校帰りの電車の窓から外を眺め、僕、能登 和希は確信した。窓の外に広がる畑は、雪によって真っ白に染め上げられ、一面の銀世界を演出している。すっかりと冬化粧した街は、遠くから来るすきーなどのレジャー客のおかげか、いつもと違った賑わいを見せていた。

「………これを見るのもあと少しか」

数人しか乗っていない車内で、僕は静かに呟いた。その言葉は静かに電車内の温かい空気に溶けた。どうやら誰にも聞かれてはいないようだ。確認するようにちらと隣を見る。隣で歓談している友人たちは、入試についての情報を交換していた。が、僕にとっては関係のないことだった。推薦で進む学校が決まって以来、僕はこの手の話ができなくて、意識して身を引いてしまう。友達も僕の立場が分かっているのか、無理に話を振ることはなかった。

「なあ、カズ。お前、彼女どうすんだよ」

どうやら情報の交換が終了したようだった。そこで僕が友人を見ていることが気になったのか、僕についての話を振る。

「や、その、まだ……」

突然の振りに僕は慌ててしまい、うまく言葉が出せなかった。2人にとって「彼女」は僕の彼女だと思ってくれているらしい。いや、それはそれで嬉しいけど、「彼女」はちょっと違うような気がする。なんだろう、気が置けない相手と言うか、幼馴染と言うか、なんとも表しづらい存在だった。

「まだ…ってもしかして伝えてないのか?お前が県を出るの」

「マジで!?お前それ拙くね?だってお前の彼女、年下っしょ?」

友人たちの言葉にしどろもどろになりながら、心の奥底で今決めたことを確認するように刻んだ。

――今日、「彼女」にこのことを話そう……と

 

 夜になると、光源が減って空が星で賑やかになる。澄んだ空気のおかげか、今日は細かい星々までくっきり見え、絶好の観測日和だった。自宅の2階からこっそり抜け出して、屋根伝いにわたって裏の梯子を降りる。雪降ろしのために冬の間は大体、梯子が掛けてあるのは、家族全員の周知の事実だ。そして、僕がこっそりと抜け出してすぐそばの山にある神社で天体観測をしていることは、僕と弟の大人(たいと)、そして妹の柚理(ゆり)だけの秘密だった。

「ふぅ…親にばれたら大目玉だもんなぁ…寒っ」

雪で滑らないように気をつけながら神社へと向かう。体が弱くて家にいることの多い柚理の面倒は、僕と大人、そして小さい頃は祖父母で看ていた。両親とも学者で家にいないことが多かったから、何かあったら祖父母、そして祖父母がいないときは僕が責任を以て面倒を看ていたのだ。しかし去年に祖父が、そしてこの前祖母が亡くなってしまった。葬式も終えて49日は一昨日のことだ。両親とも流石に放っておけないのか、お互いが交互に1日づつ家にいて、柚理の面倒を看てくれている。だが、2人とも忙しいから肝心な時は僕任せになっていた。だからこそ、早めに推薦で学校を決めて、僕が学校に行かなくてもいいような状況にしたのだ。そして、この冬を最後に、僕と柚理は新天地へと旅立つことになる。

「………久しぶりだし、いるかな?」

歩いて20分先にある山に、その神社はあった。この周辺の土地神様を祀る神社で、名前は豊郷神社。本殿があるのは山の山頂で、中腹に拝殿があり、そこまで急な階段が参道として続いている。参道は木によって常に日陰になるせいか、雪が凍りついており、いささか危ない感じだ。僕以外の参拝客はそれなりにいるようで、いくつかの足跡が階段に刻まれている。けど、今は誰もいないことを表すかのように、しんとした音一つない静寂が辺りを支配していた。

「10:45分…いい時間帯だな」

コートのポケットに手を突っ込み、冷たい金属のものを探り当て、開く。それは、父さんが僕にくれた懐中時計だった。銀色に輝くそれは、かなり値のするもので、10年に1回のメンテナンスだけで、遅れることなどほとんどなかった。信頼できる天体観測をするときの必需品。そして、僕と「彼女」を引き合わせてくれた、魔法のアイテム。

ざくっざくっという雪の軋む音をBGMに階段を上り切ると、そこは開けた境内の入口だ。月明かりに照らされて、ぽわっとした幻想的な境内の中、拝殿のお賽銭箱の後ろに、体育座りで蹲る少女がいる。眠っているのだろうか。泣いているのだろうか。遠くからは窺えないが、その子は僕の知っている子で、ゆっくりと近づきながら彼女の姿を確認する。髪の毛はこの白銀の世界に映えるような漆黒。長さは腰を超えお尻に届くほどまであり、俯いていると黒いボールのように見えるほどだった。さらりとした質感で、背中を撫でるように覆っている。

「待った?」

僕の声に、少女は顔を上げた。驚いているような、嬉しそうな、それでいて怒っているような、そんな雰囲気を漂わせて僕のことを見つめていた。紅の大きな双眸。顔の3分の1を占めた濃いその色は、鬼灯の色に似ていた。その瞳が眦を落とし柔らかく微笑む。ふっくらとした肌の白さが、雪の白さに同化してしまうのではと見紛うほど。幼い顔立ちだが、それは美しいと形容でき、そして、可愛いとも言いかえることができるものだった。

「うん。最近、ご無沙汰だったから」

素直な応答は、「彼女」のいつもの調子だ。僕が微笑みかけると、寒いせいか朱に染まった「彼女」の頬がより一段と紅に染まる。

なんだろう、変な笑いだったのかな。

そんな不安を覚えて戸惑う僕の横に、「彼女」はふわりと賽銭箱を飛び、着地した。ぎしっと言う雪を踏みしめる音が響く。少しばかりバランスを崩す「彼女」を支えながら、その華奢さに改めて驚いた。身長は僕より二周りぐらい小さい。厚手のコートに身を包み、その姿はまるで小動物のように感じる。

「危ないよ。そんなことしたら」

「いいの。だってかずきが受け止めてくれるって思ったから」

心をくすぐるような小悪魔的な言い方。それだけで僕は彼女のことを怒ることもできなくなっていた。小さくて細い指を僕の手に絡ませて、2人で街を見下ろせる高台へと向かう。高台へと向かう途中、僕は「彼女」のことを、昔のことを思い返していた。

 

 彼女との出会いは、数年前に遡る。当時の僕は、両親に甘えたいという心の弱さと、家族のみんなを守るのは僕なんだという使命感に板挟みになり、疲弊していた……と思う。無理をしてでも手伝いをし、自分の遊ぶ時間を惜しんで生きてきていた。勿論、友達もいなかった。誰もが僕を避けていたように感じていた。そんな僕の唯一の息抜きが、天体観測だった。両親が学者だったせいか、誕生日プレゼントはあの時計を除いて、みんな学問に関連するものばかりだった。

 天体観測用の望遠鏡も、その1つだった。

 僕はそれに熱中した。家を離れることがあまりできなかった僕にとって、家で見ることのできる天体観測は、最高の娯楽となった。そして、その先は子供特有の好奇心と後先考えない思考が先走った。こっそりと家を抜け出して、この場所まで重い観測用具を持ってやって来たのだ。それも、何日かかけて、拝殿の中に観測用具を隠しながら。

 そして、僕が観測を決めたその日。その日は皆既月食と言うこともあって、日本中が騒いでいたように思う。僕も浮かれて、大事な時計を持って、ここで観測を始めた。逸る気持ちで時計を見たとき、「彼女」が、僕の前に現れた。

――珍しい、時計だね。

――誰?

――ああっ、ごめんね。私の名前は……

 

「もう、準備できてるよ」

「彼女」の言葉によって僕は回想を終了した。そこにはもう、天体観測の一式セットが備わっている。あの日以来、ここの拝殿の中は僕と「彼女」の秘密基地となっていた。そこにこれらのセットが閉まってあり、僕が来る前に「彼女」がセットするのが「決まり」のようになっていた。

「うん。……いつもありがと」

「どうしたの?改まっちゃって。へんなかずき」

僕の言葉に彼女は軽やかに微笑んで、返した。その微笑みは天使のようで、僕の心に強く突き刺さる。

「かずき。見てっ」

「彼女」は興奮した様子で望遠鏡をのぞいていた。今日は久しぶりの皆既月食の日。もう始まりかけているのか、月は少しばかり欠けていた。

「うん。なんか、こうやってまじまじ見るのも久しぶりだ」

僕も彼女に呼ばれるがまま、望遠鏡を覗く。月が欠けている様子をまじまじと観測しながら、これから「彼女」にどうやって伝えようかと思案していた。一度望遠鏡から目を離し、隣にいる「彼女」を確認した。彼女は寒そうに体を震わせ、僕に寄り添ってくる。ちょっとだけ恥ずかしそうにハニカミながら、「彼女」は頭を僕に預け、上目遣いで見つめてくる。

 可愛い。

仕草も、表情も。雰囲気も。何もかも。

見透かされるのではないかと言うほどに顔を熱くし、僕は「彼女」のことを見つめる。数秒だけ見つめ合う。まるでにらめっこみたいな構図。

「ぷぅ」

「ぷっ、ハハハハッ…」

お互いが笑いだすのは、同時だった。腹を抱えて笑う僕と、恥ずかしそうに、でも隠さないで笑う「彼女」。しかし、その「彼女」の動きが、ピタッと制止した。両の手を股にあて、押さえつけるように体を屈ませる。顔が耳まで真っ赤に染まり、小柄な体が小刻みに震えていた。

震えが収まり、大きく白い息を吐くと「彼女」は、無言で僕の服の袖をギュッと握った。まるで幼い子供が離れることが怖くて親にすがるように、その華奢な腕から想像できないほど強く握り、顔を俯かせている。それはきっと恥ずかしさからきているのだと、僕は知っていた。

「じゃ、一回下に行こうか」

拝殿の方へと歩くとさっきまでの快活さが嘘のようで、借りてきた猫のように大人しく僕の後ろについてくる。ぎしっぎしっという雪の音に混じり、何かが掠れるようなかさかさといた音が耳に届いた。

 

 拝殿横には使われなくなった社務所がある。そこは使われなくなったと言っても定期的に整備されていて、畳はまだ青みが残る新品だった。そこの奥、押し入れの中にある布団を取り出し、さらに吸水マットレスやタオルなどを取り出す。全てここの神社が持っているもので、同時に「彼女」の所有物だ。月に数回ほどここで賽銭泥棒などを監視するために宮司さんが泊まるらしい。火も電気も通っていて、僕はすぐさま暖房と給湯器に火を入れて、お湯を洗面台の中に汲んだ。

「かずき…あの…」

恥ずかしいのか、「彼女」は顔を隠すように手で覆う。コートは脱いであり、下には厚手のセーターとリボンがついたプリーツスカート。黒いニーハイソックスを穿いた姿は、どこにでもいそうな美少女の姿だった。しかし、「彼女」の秘密はその奥の、秘密の花園にある。

「おいで」

僕に言われるがまま、「彼女」は布団とマットレスが敷かれた場所の上に、腰を下ろした。リボンを解き、スカートを外す。「彼女」はそこで観念したのか、両の腕を体の横においた。その仕草はこれからやろうとする事に合っているようで、僕は内心で笑みを浮かべる。

「あ、あんまりみないで」

必死な懇願は当然だった。「彼女」の体、大事なところを覆うそれは、一般的な言葉で言えば「紙おむつ」だったからだ。

 「彼女」がどうして「紙おむつ」を穿いているのか。それは、「彼女」の正体にも通じている。

 「彼女」の名前は天豊郷女命。つまり、ここに祀られている神様が、「彼女」だった。そして「彼女」の体は、僕の妹の身体と「共存」している。正確に言うと「共存在」らしい。神様がこちら側に働きかけるときに「巫女」と呼ばれる存在を仲介するのが一般的とされる。しかし、「彼女」は偶発的な事故によって、この世界に「受肉」したのだ。それも妹に共鳴してその生命力を分かち合う、いわば僕のもう1人の「妹」となって。

「だから『さとみ』は、おむつなんだよね」

僕の言葉に、「彼女」こと、さとみは顔を赤くした。妹が病弱なのは、さとみと命を共有しているから。そしてさとみもまた、命の共有により妹の柚理の影響が出ている。そう、柚理もおむつの世話になっているのだ。

「や、恥ずかしいこと、言わないでよ……」

尻すぼみに勢いを無くし、声は冷たい空気の中で熱を与えて霧散した。マジックテープの乾いた音が響く。さとみの白い肌が全体的に紅に変化する。それを見ただけで慣れている作業のはずなのに、体の硬直と緊張の度合いが増した気がした。心臓がバクついている。今にもこの胸から飛び出しそうなくらい、激しく動き回っている。

「前、開くよ…」

「うん」

短い確認を言うにも、声が震えてしまいそうだった。前あてを開く。出したばっかりのおむつは、ほんのりと湯気を出していた。おむつの内側は黄色く染まっているものの、外に漏れ出ているという様子はなかった。普段はさらさらとしたポリマーが、今は水を吸い込んで膨らんでいる。その上にある幼いままの秘所は、僕にとっては見慣れたものだ。けど今日に限って、そこから醸し出す色気に、頭がクラクラになりそうになる。

「あ、あんまり、じっと、見ないでよ…」

彼女の言葉にはっとして、僕は邪念を吹き飛ばしながらおむつを交換することに集中する。汚れたおむつを取り去り、汚れた秘所周りを拭いて行く。温タオルが触れた瞬間、彼女の微かな声が、僕の耳に届く。

「あひゅ……」

その声に合わせて、彼女の体が硬くなる。タオルが触れるときに一声かけるべきだったと後悔しながら、彼女の身体を念入りに拭いて行く。本来ならこの後かぶれ防止のためにパウダーを塗したりするのだが、そんな上等なものはここにはなかった。

「あ、あんっ…」

突然の喘ぎ声で動きを止める。秘所周りを入念に拭いていたが、なんか里見の様子が変だ。体を固くし、ぎゅっとおまたを閉じようとしている感じ。注意深く見てみると、秘所の一部分、おしっこが出る所がひくついているのが分かった。

「もしかして、まだ出そう?」

推論を彼女に問うた。彼女はビクッと体を震わせたが、首は縦に動いていた。

「いいよ、出しちゃっても」

僕はすかさず、新しいおむつを彼女の下に敷いた。彼女はお尻の下に敷かれたおむつの感触に身を震わせたが、今度は首を横に振って、

「で、でも…恥ずかしいよ…」

と体を強張らせる。僕は彼女を見つめ、

「我慢するのも体に悪いし、出せるときには出しちゃった方がいいよ。それにずっと、僕はさとみのおもらしも、おしっこも、見てきてるんだよ?今更言ったってしょうがないよ。それに……僕は見たいな。さとみがおしっこする所」

「なっ…!」

と少しばかり意地悪な返しをした。するとさとみがそっぽを向き、不満そうに口を尖らせた。ちょっとばっかしデリカシーに欠けたかなと不安になるが、彼女は今一度首を縦に振り、

「……うん。じゃ、おしっこ、出すね…」

目を逸らしつつも頷いた。

 さとみの体が震える。緊張を解いているのか、全体的に見て脱力している感じだ。おしっこの穴がひくひくと動いた。今にも出そうで、なかなか出ない。そんなもどかしさを感じながら、その一部始終を見ている。

「あう…あとちょっとなのに…」

さとみはなかなか出ないおしっこに焦りながら、緊張と弛緩を繰り返す。それでお、おしっこはなかなか出てこない。うまくいかなくて戸惑っているのか、顔は少しばかり苦悶していた。

「手伝ってあげる」

「ふぇ…?ひゃっあ!?

見かねた僕が彼女の秘所の周りを優しく、念入りに撫でた。彼女は上ずった声を上げ、大きく仰け反る。

その時、ぷしゃと、最初の一搾りが飛び出した。それはおむつに微かな染みを描き、白を黄色へと変えた。

「あ、ああっ、出ちゃうよ!おしっこ、きちゃうのっ!」

一度開いた門は、もう閉まらなかった。勢いのあるおしっこが、放物線を描きながらおむつに落着する。はじけ飛ぶおしっこは外のマットに染みを作り、おむつは見る見るうちに鮮やかな黄色に染まっていった。

「出てるっ、熱いの、いっぱいぃ…」

瞳を閉じながらも、口で実況を止めない彼女の言葉に乗るように、おしっこはなかなか勢いが収まらなかった。

「かずき、かずきっ、見てるの?あたしの、恥ずかしい姿、全部見てるのっ?」

変に興奮した言い方で、さとみは問いかける。僕もまた、その姿に興奮を覚えながら、優し声色で返した。

「ああ、見てるよ。だから、全部出しちゃっていいよ」

「うんっ。かずきっ、あたし、全部、ぜーんぶだしちゃうよっ…!」

「いいよ。ほら、さとみ…」

さとみのおしっこは、そのあと30秒ほど続いて終息した。最後はおむつに一つの線を作り、おしっこは湯気を残しながらすべておむつへと吸収されていった。肩で大きく息を吐いて、さとみはこちらを見る。その表情は安堵したような、満足したような、そんな表情だった。僕はにこやかに彼女に微笑み、もう一度タオルで彼女の秘所を拭き始める。その中に、おしっことは違う染みを見つけて、僕はちょっとだけ顔を赤くした。

 

 新しいおむつを穿かせて、もう一度高台へと向かう。月明かりは一気になくなり、薄暗闇だけが辺りを支配していた。妙に怖くなってしまい、お互いが寄り添うようにして上へと向かう。

「あのね、かずき」

さとみの声が、下の方から聞こえる。

「何?」

「あたし、知ってるよ?かずきがもう、ここに来れなくなるって」

沈黙。

「だってあたしは、あたしたちは、繋がっているから」

それは、一緒に行く柚理のことだろう。

「だからね、知ってるの。知ってるんだ。もう、会えなくなるって」

「……そんなこと」

ない、とは言えなかった。ギュッと握る彼女の手が、とても強くて、儚かったから。

「…大丈夫だよ、あたしは。かずきの方が、心配」

ちょっとばかり、彼女の声の中に、涙が混じる。

「僕も、大丈夫さ」

何故か、強がった方がいい気がした。

「なら、あたしと今日で、お別れ?」

強がったような涙交じりの声。

「うん。……そういうことになると思う」

僕は、まるで他人事のように言った。

「時計、見せて、かずきとあたしの、時計」

僕はポケットの中の時計を取り出し、開く。文字盤は、もうすぐで12時を指すところだった。

「ありがと、かずき。そして、またね」

彼女の気配が、忽然と消える。

「……!?さとみ?どこにいったの?さとみ!?

文字盤は、12時ちょうどを、指していた。

 

 雪はまだ残っているが、うららかな陽気は春の到来を予感させた。風も冷たいものから暖かいものへと変わりつつある。卒業式を終えた僕と、終業式を終え、転校手続きを済ませた柚理は、電車の中で向かい合って腰かけていた。荷物は先に送り、僕らは電車でそれを追い掛ける手はずになっている。

「柚理ちゃん、私のこと忘れないでねっ」

「向こうについてもお手紙よろしくね、柚理」

対岸に座る柚理は寄せ書きを呟きながら優しい笑みを浮かべている。僕はこの前友人と合格祈念パーティをして、別れをしたばっかだ。見送りはいなくても、その気持ちは確かに心に届いている。

「さとみ…」

遠くの、雪の残る山を見ながら僕は呟く。あの山の中腹辺りに、豊郷神社がある。

あの日以来、さとみには会っていない。神社に行っても、さとみと出会うようなことはなかった。拝殿の中にも誰もいない。社務所の中にも誰もいない。誰も、誰も、誰も。その事実に寂しさを覚えて、僕は色んな道具を回収し、すべて新しい住まいへと送った。もう、あの神社に僕と彼女が一緒にいた証拠となるものは、残っていなかった。

「おにぃちゃん?」

乳白色の肌をした妹が、僕のことを心配して話しかける。最近は体調もいいようで、学校に行く回数も増えていた。それがさとみが消えたことに関係するのかは、僕にはわからない。

「あのね、おにぃちゃん。私ね…」

何か言いにくそうに、柚理がまごつく。僕はその少女っぽい、可愛らしい仕草を見つめながら、やんわりと微笑んだ。妹の顔が、ひゅんと赤くなる。

「隣、空いてる?」

通路側からの声に、僕は無意識のうちに頷き、ハッとした。声の主は僕の横に腰かけると、すっと僕の腕に自分の腕を絡ました。さらりと揺れる黒髪が視界に入り込み、端の方で喜んだ柚理の顔が映る。しかし、視界のほとんどは、彼女の顔に注がれている。僕の知っているその顔は、悪戯そうに微笑むと柔らかい唇で、

「かずき」

僕の名を呼んだ。

「さとみ、どうして…」

目の前にいる少女は、僕が好きな、あの神様だった。

「わ、私が、頼んだの」

横から、もじもじと動く柚理が割り込む。僕とさとみの視点が彼女へと集まりビクッと小動物のように震えたが、こくんと頷き、畳みかけるように説明する。

「だっておにぃちゃん、いつも大変そうだったから。私、迷惑かけたくないし、それで、あのね、おにぃちゃんが学校行ってる間に、豊郷神社にお参りしたの。おにぃちゃんを、守ってって。そしたらね」

「いいよ。……ありがと、柚理」

妹の臙脂色の髪を撫でながら、感謝の言葉を告げる。柚理は安心したように微笑み、瞳を閉じていった。数分も経たないうちに、彼女は眠りに就いた。すぅすぅという寝息が、とても愛らしい。

「と、いうわけだよ。かずき」

彼女の小悪魔っぽい表情で言われたら、僕は納得するしかない。トンネルに入り、轟音が車内に響く。

「そ―にね…あたし、―――だから」

彼女の言葉がトンネルの轟音に遮られ、うまく聞こえない。けど、口の動きで、僕は彼女の言葉を理解できた。

「うん。僕もだ」

その返事に彼女は、喜び、そして体を寄せてくる。その時、カーブで大きく電車が揺れた。

「ひゃっ!?

彼女と僕の顔が、数センチの所まで近づいた。お互いの息がかかる。近すぎて思考は正常に戻らない。それどころか、彼女が自らこちらに近づき……

その唇を、僕のものへと重ねた。

想像以上に柔らかいそれは、僕の心を洗っていく。恋人同士の優しいキス。僕にその体を預け、彼女は触れることが愛しいようにキスを続けた。

トンネルを抜ける。同時にお互いが体を離し、恥ずかしそうに縮こまった。思い出すように唇を撫でる僕と、顔を紅に染めて俯いてしまうさとみ。そして僕は、もうひとつの事実に気付き、彼女に耳打ちする。

「いゃあっ!」

驚いたのか大きく仰け反り、こちらに体を向ける。今日は暖色系のカーディガンにチュールスカートといういでたちの彼女は、周りには見えないようにスカートを僕の方へ捲る。そこには、少しばかり膨らんだおむつが、あった。

「おもらし、しちゃったから、また、換えてくれる?」

甘えるような声。僕は彼女の髪を撫でながら、

「もちろん、だよ。僕も、さとみのおむつを換えたいから」

と言った。彼女は、

「この馬鹿。でも、すごく、うれしいよ」

満面の笑みで、それに応えた。外の世界は雪化粧から抜け出して、春のうららかな田園風景が広がっていた。