唐突だが僕には一人、姉がいる。名前は春香。僕より1つ歳上の19歳の大学生だ。

運動も勉強もそれなり以上によく出来るし、ルックスも悪くない。

昔から面倒見も良かったし、周囲のほとんどの人間は性別や年齢を問わず姉を慕っている。

両親から言わせるとよくできた娘で、僕から言わせると自慢の姉。

完璧超人とまではいかないが、とにかく誰からも好かれている人だ。

「……ちょっと、何ボサッとしてるのよ」

……まあ、あえて難点を挙げるとしたら。

「ほ、ほら早く取り替えてよっ。ホントとろいんだから」

最近再発したおねしょ癖と、甘えるのがものすごく下手くそっていうところくらいのものだろうか――





事の発端はひと月ほど前、季節的に言うと夏のおわりごろ。僕が姉のある秘密を知ってしまったことだ。

ある日妙に朝早く目が覚めて、水でも飲もうかと思い自分の部屋から台所へ向かおうとしていた僕は、

下半身はだかんぼのままおねしょの隠蔽工作をしていた姉と廊下で鉢合わせしてしまった。

おしっこで濡れたパジャマやらなにやらを乾燥機に放り込んでほっと一息ついていたのだろう、

完全に心が弛緩しきっていた姉は僕の姿を見た瞬間ぱくぱくと口を動かしながら硬直した。そして、

「うぇっ、ふぇっ、うぇえええええん……ふえぇええええええええん!!!」

そのままぽろぽろと大粒の涙を流して子供みたいに泣きじゃくりはじめたのだ。

「え!?ちょ、ね、姉さん?」

両親が起きて来なかったことが不思議なくらいの大声。僕は面食らって立ち尽くす。

「やだぁあああ……お願いだから見ないでぇ、見ないでぇ……」

しょおおおおおおお……ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……

水音と共に泣きじゃくる姉の足元には水たまりが広がってゆく。若干のアンモニア臭を帯びたそれを、

僕の頭は妙な冷静さで「おもらし」であると判断していた。

親も起きてない時間。下半身裸でショックのあまりおしっこを漏らしている姉。

そして図らずともその原因をつくった僕。

「お漏らしやだぁあああ……見ないで、見ないでよお……」

漫然と思考が形になり、直感が現場を押さえられることに対する警鐘を脳内で鳴らした。

「いやちょっと落ち着いて。大丈夫、大丈夫だからっ」

(タオル、雑巾、それからあとは……あとなにがいるっけ!?)

僕は軽くパニックになりながらもとりあえず姉にタオルを手渡し、

緊張と危機感で震える手で廊下の後始末に取り掛かることにした。


「……で、なにがあったのさ」

それから小一時間後。ようやく落ち着きを取り戻した姉の部屋で、僕は事情を聞いていた。

「いや、その、実はね……」

新しいパジャマに着替え、ぺたんと床の上に座り込んだ姉は言いづらそうにしながら

シーツと掛け布団カバーのないベッドの方へと視線を向けた。

「もしかして、おねしょ?」

姉の視線を辿った僕がそう言うと、こくり、と顔を真っ赤にして小さく頷いた。

「今日だけじゃ、ないの。最近ほとんど毎日してて」

そう口にしながらじんわりと目に涙を浮かべる。それを見た僕は、また泣かれたらどうしようかとちょっと焦った。

「ほ、ほら泣かないで。あ、ほらきっとあれだよ、体調が悪かったんだよ。風邪引いてたりとかしてさ」

しかし姉は首を横に振った。

「そういうのじゃなくて多分ストレスか何かなんだと思う。最近学校も忙しかったし課題とかで立て込んでたし」

(あー、そういえばこのごろの姉さんって夜遅くまで起きてたりしてたっけ)

そういえば、子供が弟や妹の生まれたことからくるストレスでおねしょやおもらしを

繰り返すようになることがあるってテレビでやってたような気がする。

(じゃあつまり、姉さんは赤ちゃん返りを起こしてるってこと?)

僕はなんとなく信じられなかったが、どこか妙に納得している部分もあった。

いま思えば姉が誰かに甘えてるところなんてほとんど見た覚えがない。

子供の頃から姉は僕の世話を焼いたり両親や周囲の期待に答えようとしていた。

そういう反動が今になって出て来ることもありえないとは……。

「少しずつひどくなってるの」

「え?」

「最初は朝方ちょっとちびっちゃうくらいだったのに、だんだんベッドを濡らすようになってきて」

姉の目からまた涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

「今日なんてあなたの前で、お、おもらし、まで……っ」

ひくっ、ひくっ、と子供のようにしゃくりあげる。

「どうしよう、このままもっとひどくなって、外とか出れなく、なっちゃったらっ、きっと母さんたちやあなたにも迷惑……」

「姉さん」

「……っ」

安心させようとして頭を抱くと肩がぴくんと跳ね上がった。

「ごめんね、ずっと無理させてきて」

ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「姉さん、ずっと僕の世話焼いたりしてくれたじゃん?遊んでくれたり、宿題見てくれたり、寂しい時や不安なときは甘えさせてくれたり」

石のように身動ぎしない姉の背中をぽん、ぽんと子供をあやすように叩く。

「もしかしたら僕や母さんたちはそれが当たり前だと思って姉さんのこと、どこかで蔑ろにしてたのかもしれない」

腕の中で震えながら首を横に振る小さな姉。流した涙が僕の胸を静かに濡らす。

「でもっ、でもっ……」

「自分がお姉ちゃんだからとか、今は考えなくたっていい。大丈夫だよ、姉さんのこと嫌いになんてなれないから」

よしよし、と頭を撫でる。姉は僕にされるがままになりながら、無言で小さく頷いた。

「僕にできることなら喜んで引き受けるよ。母さんたちに言えないようなことだっていいから」

ゆっくりと姉が顔を上げる。涙で濡れた瞳が不安げに僕を見つめ返した。

「何でもいいんだ。何か僕に出来ることってないかな?」

心配しなくていいよ。と僕は微笑えむ。姉が楽になれるなら本当になんだってするつもりだった。

「ほんと?ほんとにほんと?」

「うん。何でも言って」

「それじゃあ、あのね」

姉は一度言葉を切って、大きく深呼吸をしてからこう言った。

「わたしね、小さな子どもみたいに、されてみたいの」


……。

うん、まあそれからしばらくの間は良かった。

姉から「母さんたちには内緒にしてほしいの」と頼まれたからいつでもそうするわけにはいかなかったけど二人きりになれるときにはうんと甘えさせた。

夜寝るときに抱っこしながら一緒に寝たり、構ってほしそうなときに頭撫でてあげたり、おやつを食べさせてあげたり。

「はい、あーん」

「あ、あーん……」

「恥ずかしがらなくていいよ。僕も昔は姉さんにこうしてもらってたんだから」

「ん……なんかこうやってるとすごく安心するの」

「そっか」

「~♪」

そうやって姉の望みを叶えていくうちに、おねしょの回数はだんだん減っていった。

姉の心もにすこしずつ余裕が出来てきてるように思えて、僕は嬉しかった。

だから見落としていた。甘えの程度が少しずつ幼くなっていったことと、それが元の生活との間に大きな隔たりを生み出していたことを。



しばらくして姉が突然、顔を真っ赤にしながら寝るときにおむつをあてて欲しいと言ってきた。

どうもテレビのCMを見て自分もおんなじようにして欲しくなったらしい。別に僕は嫌じゃなかったし、快くそれに応じた。

ところがいざそれを実行に移そうとしたとき、姉は「やっぱりいい」とその願望を否定したのだ。

僕は最初、おむつをすること自体に拒否反応を示したのかと思っていた。でもそうじゃなかった。

姉の中で静かに存在を誇示し始めたもの。それは元の自分との葛藤だった。

きっと心に余裕ができたせいで、冷静に自分を見つめ返すことが中途半端にできるようになってしまったためだろう。

日に日にエスカレートする要求と、こうなる前の自意識。そのぶつかり合いが姉の心を不安定にしていた。

その結果、姉はまた甘えることができなくなってしまった。そしてまたおねしょの頻度も増えた。

「どうしたらいいんだろう……」

僕は悩んだ。姉がまだ、心の底では子供のように甘えたいと思っていることは、まず間違いなかった。

なぜなら姉は相変わらずおむつのCMを物欲しそうに見つめていて、

自分でそれに気づくと慌ててテレビから目を背けるという非常に分かりやすいリアクションをしていたからだ。

このままでは元の木阿弥。そう考えた僕は強硬策に出た。

「お願いがあるんだけどいいかな」

「うん、どうしたの?」

「あのさ……姉さんにおむつあてさせてくれない?最近甘えてくれないから僕も寂しくて」

「へ?え、ええっ!?」

つまりどうしたかと言うと、僕が姉に頼み込む形で無理やり甘えさせることにしたのだ。

こうすることで姉は僕に「頼まれて仕方なく」という言い訳を自分にすることができるんじゃないか。そう僕は考えた訳だ。

これには姉も困惑し僕の「お願い」を断固として断ったが、僕が意地でも折れなかったせいもあって最後は渋々ながら承諾した。

形は違ってしまったが姉は前と同じように甘えることができるようになり、おねしょの回数も順調に減っていった。

だがしかし、僕は見落としていた。ここに隠されていたとてつもない落とし穴の存在を……。




「べ、別にわたしがおむつあてて欲しいわけじゃないんだから……」

「ほら、なにグズグズしてるのよ。早くあててってば」

「もっと可愛い柄のおむつがいいって言ったじゃない。なんで無地なのよ」

どうしてこうなったのだろうか。自主的に甘えてた頃と違い、僕がお願いする形でそれをすることになったために

気づいた時には姉のキャラが色々と大変なことになってしまっていた。

きっと僕の頼みを聞いてあげているという建前と、甘えたい気持ちがあるという事実が姉の中で矛盾を起こしてしまい、

それを解消しようとした結果もともと甘えるのが下手だった姉の性質に拍車がかかった結果、

よくわからないツンデレもどきみたいなキャラが出来上がってしまっていたのだろう。

いやまあ、へた強攻策をとった僕も悪かったんだけどこれがなんというか非常に。

「ほら、早く取り替えなさいよっ。ホントとろいんだから」

「はいはい」

面倒くさいんですよねー。

「ほら、早く拭いてったら」

ベッドに足を投げ出したままジト目で睨んでくる姉に苦笑いしながら僕はテープ式紙おむつの前をペリペリと音を立てて剥がした。

姉のおねしょをたっぷり吸収して膨らんだおむつの中には薄い黄色がまんべんなく染み込んでいて、

昨晩のおねしょが一度や二度ではないことを示していた。

「いっぱい出たね、姉さん」

「そ、そういうこと言わなくていいからっ」

僕が少しからかうと、姉は顔をまっかにしてプイッとそっぽを向いた。

「今日は土曜だから学校ないけどどうする?パンツ履く?」

「仕方ないからおむつのままでいいわよ……」

何が仕方ないのかはわからないが気にしないでおく。

僕は了解を返すと押入れの中に隠してあるパンツ型おむつを何枚か取り出した。

「今日はどっちがいい?くまさんとうさぎさん」

さまよった視線がうさぎ柄のおむつに留まる。しかし、

「どっちでもいい」

返ってきた返事はそっけなかった。まあでもこれもいつものこと。

「じゃあうさぎさんでもいいよね」

「好きにすればいいじゃない……」

どうでもよさそうな口ぶりだけど、口元が緩んでるせいで姉が内心嬉しがってるのはバレバレだ。

「ほら姉さん、履かせてあげるから立って」

そう言って姉をベッドから立たせようとする。しかし。

「やだ」

「え?なんで?」

「やだったらやだっ」

苦労して起こしたのにまた布団に包まってしまった。

「ねえさーん、ほら、起きないとご飯食べられないよー」

「うるさいっ」

不貞腐れてるようで何かを期待してるような素振り。

(もしかしてそういうことかな)

「……春香ちゃん」

そう囁きかけるとピクリ、と姉の肩が動いた。

「おっきしましょーかー」

「んぅ……」

ぴょこっと掛け布団から顔を出してこっちを見てくる。ああ、やっぱりそういうことか。

「おむつするからたっちしてくだちゃいねー」

そう声をかけると姉はのそのそと布団から出てきた。

ベッドのへりに手をおいてこっちにおしりを向けてくる。流石に前からは恥ずかしいらしい。

別に姉弟だしそんなに気にする間柄じゃなかろうに。

心のなかでため息を吐きながら片足ずつおむつをくぐらせて、強すぎないよう上に引っ張り上げて完成。

最後にぽんぽんと軽くおしりを叩いてあげる。

「さ、ご飯食べに行こっか」

「ん……」

少し照れたようで、でも嬉しそうな笑みを浮かべた姉は、リビングへと向かう僕のシャツを掴んでついてきた。





「そういえば父さんと母さんは?」

「あー、なんか高校の同窓会があるって言って出てった。もしかしたら泊まりになるかもしれないって」

朝食を済ませたあと、食器を洗いながら僕はそう答えた。

「あら、そうなの?」

居間では姉がソファに座ってのんびりと紅茶を飲んでいる。

僕らの部屋のようにいつでも二人きりじゃない場所ではいつもどおりの姉だ。

無理をさせてるようで申し訳ないが流石にいつものやり取りを親たちに見せるわけにはいかない。

「うん。それでさ、今日は僕ヒマなんだけど……今日くらいはずっと一緒にいない?」

「えっ?」

姉が驚きで目を丸くしてこちらを見てくる。

「いや、たまには一日中姉さんに付き合うのもいいかなって」

せっかくの休みなんだし、たまには姉さんを一日ずっと甘えさせてあげてもいいだろう。

「こんな機会めったにないだろうからって思ったんだけど、姉さん今日は用事とかあるの?」

「ないわけじゃないけど、でもあなたがどうしてもって言うなら……」

回りくどい言い回しに苦笑いする。本当にうちの姉は甘えるのがどうしようもないくらい下手くそだ。

「じゃあ決まり。今日はとことん甘やかすから」

僕が言うと姉はおもむろにソファから立ち上がった。そして。

皿洗いの最中の僕の背中にぎゅっと抱きついて、小さな子供のような口調で、ねぇ、と切り出した。

「本当に大丈夫?無理してない?」

「ううん、別に」

「ワガママ言うよ?」

「いいよ」

「すごく甘えん坊になるよ?」

「うん」

「お漏らしもするかも」

「おむつしてるじゃんか」

「じゃ、じゃあ……」

姉の体が背中でぷるぷると震えた。後ろで聞こえる水音と荒い息遣い。そして。

「今日一日、わたしのおむつ替えさせてあげてもいいよ?」

微笑ましいくらいに下手くそなおねだり。それが僕ら姉弟の甘々な一日の始まりだった。