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リノリウムの床をひたすらに走り抜ける。靴でブレーキを掛ける。滑るように階段へ。そのまま1段飛ばしで降りる。苦しい。こんなに真面目に走ったのは久しぶりだ。ワイシャツに汗がへばりついて、気持ち悪い。

2階にある出口から、デッキに出る。初夏と思えないほどの日差し。部活後だからか、いつもより人が多い。僕は遠くにいる人影に気づき、そして後ろから来る足音を感じて、人ごみに隠れるように逃げる。胸についている機械が、等間隔で電子音を鳴らす。それが相手に聞かれてないかと思うと、怖い。少し離れてから後ろを振り返る。足音の主が、僕を見失ったのか人込みの中に僕の姿を探してるのが見える。

僕はもう1つの人影に目を向ける。もうひとつの人影は、帰る人の流れに逆らいながら僕に近づいてくる。僕は急いでデッキから下の道路に出る階段に向かう。階段を一気に駆け下りて、そのまま切り返して走り出そうとしたとき、遠くで何かが上から落ちてくるのが見える。電子音の間隔が早くなる。僕はそのまま斜めに道路を走る。歩行者天国だから、気にせず走れるのがうれしい。

「見つけたにゃ!薫!」

デッキから降りてきたのはたまのようだ。僕はそのまま、美術棟へ突入。ダビデ像の横を通り過ぎ、大階段を駆け上る。少し振り返ってみた。さすが猫。たまはすぐにでも追いつきそうな速さでエントランスを走り抜けている。僕は上りきるとそこから左に曲がり、放送部棟の渡り廊下へ。

「どうしたんだあ?急ぎかい?」

見知った顔に声を掛けられた気がしたが、今は構ってられない。放送部棟に入ると、横にある階段を上る。そして、すぐ近くにあるスタジオに隠れる。防音設備が完璧なスタジオならやり過ごせる。そう確信する。

案の定、こっそり小窓から見たが、たまは僕に気づかず廊下を走り去ってしまった。放送部棟の廊下は迷路だ。しばらくは隠れていられる。近くにあった回転イスに座り、息を整える。部屋のクーラーの電源を入れ、足をダランと伸ばす。いざというときのために、反対側の出口を開けておく。すると、入ってきたほうのドアが開いた。僕はすぐ出られるように身構える。

「やあ肝試し以来だね。覚えているかい?」

入ってきたのは舘雄の兄、孝太だった。僕はほっと胸を撫で下ろす。孝太はドアをしっかり閉め、僕に聞く。

「喧嘩でもしたのかい?渡り廊下で君が走り抜けた後から、たま君が君を追いかけて行ったからね。ちょっと気になったんだよなあ」

正直言って、あまり話したくない。が、説明しないわけもいかない。

「あの、笑わずに聞いてください。あと、深く突っ込むのも禁止ですから」

先に条件を言う。孝太は頷きながら「わかった」と言った。僕は深呼吸し、覚悟を決める。

そうこれは、とてもくだらなくてとても子供っぽい話。誰かに話すまでもない、日常の話。

事の発端は、1時間前に遡る。


ゴールデンウィークの中にある平日である今日は、普通の学生にとってつまらないことこの上ない日だ。だが、僕らの学校である桜ヶ丘学園の粋な計らいの1つに、調整日というものがある。これはこのゴールデンウィーク中、通常授業は行わずに特別補習のみ行うと言うものだった。これは1年目の編入組にとっていいことこの上ないものだった。これにより、僕は長い休暇を得るはず…だった。

休暇前の小テストで、まさかの赤点を取らなければ。

前日に家で夕子の歓迎パーティをしてどんちゃん騒ぎをした後、そのまま僕はリビングのソファで寝てしまい、体調が優れないまま学校に行き、そのまま小テストに突入。記憶は完全に吹っ飛んでしまい、まさかの赤点。それを知った守人が、凄くかわいそうな目で僕をみていたことは今でも忘れられない。

その日のうちに、僕は特別補習を受けることが決定した。僕は先生に掛け合い、ゴールデンウィーク前半に補習を終わらせるように日程を調整してもらう。慣れたエスカレータ組の中にはそんな人も多いらしい。その日は、ベッドをいなりと夕子に貸し、徹夜で勉強した。次の日に当たる今、エスカレータ組の数人と一緒にみっちり補習を受け、くたくたになって帰宅している。補習組の中には舘雄と結の姿があった。2人とももう補習の常連らしく、先生と親しく話し込んだりしていた。ただ、僕と違い、赤点が多い彼らは午後までみっちり補習詰めらしい。

「あ、やっと来たにゃ!」

たまの声で思考が遮られる。学校の入り口にいなり、たま、白梅、夕子、音子さんが待っていた。僕は走って近寄り、音子さんに聞く。

「どうして皆がここにいるんですか?わざわざ僕を迎えに?」

音子さんは首を横に振る。その後一拍おいて、

「この子たちが『薫に決めさせる』と言い張って聞かないんです」

と説明する。僕はその説明の中の疑問点を再度聞く。

「僕に何を決めさせるんですか?夕飯ですか?夕飯だったら今日は天津飯でも作ろうかなって…」

また音子さんがさっきと同じように首を振る。今度は間髪いれずに、

「ここでは申し上げにくいので、歩きながらというのはどうでしょう」

と提案する。僕はその案に同意し、まっすぐ歩きかけ、

「待てねね。このまま家の帰るのならここまで来た意味がないぞ。早々に話して決めてしまったほうがわしはよいと助言するぞ」

いなりが僕を押しとどめながら言った。白梅が一度首を縦に振り、

「…白梅…早く…意見…聞きたい…」

と僕の袖をぐっと引っ張る。たまが僕を見て朗らかな笑顔を浮かべながら、

「で、決まったかにゃ?」

と迫ってくる。いや、何を決めろというんですか。僕の顔をずっと見ていた夕子は、やれやれという顔をしたあと、僕にしゃがみこむようにジェスチャーする。僕はそれに従いしゃがむと夕子はひそひそ話特有の仕草をしたあと、説明する。

「神島君。よく聞いて下さい。一昨日から私はあなたの家でど、同棲することになったのは神島君も理解していますよね」

同棲という言葉のせいで、少し恥ずかしくなった。それでも理解していると言うことを表すために頷く。夕子はそれを確認してから、続ける。

「そこで問題が生じました。それは神島君に関わる事であり、今まで運がよいのか悪いのか分かりませんが、そのことを触れずに済んできました。がしかし、今日はその問題が避けられないというのも理解してください」

ひどく回りくどい説明だ。本題にまったくもって触れていない。

「で、その問題が聞きたいんだけど」

夕子の顔が赤くなる。恥ずかしそうにもじもじ運動した後、そっと僕に告げる。

「あの、その、今日神島君と誰が添い寝するか…このことが今回問題になっていることです」

添い寝の所だけ、少し声が小さかった。僕も顔が赤くなる。いなりは僕らの顔を見て察したのか、僕に向かってその後を継ぎ足す。

「今までの順番ではたまじゃが、生憎わしは昨日かおるではなく夕子とやった。それに夕子はまだかおるとは一緒に寝とらん。そういえば一昨日はソファで寝ておったから白梅とも1日寝とらんじゃろ?ちょうど明日からかおるの実家に帰るのじゃろ?なら、そのとき母上殿に新しい順番を作ってもらうとして、今日はどうするのかを本人から聞こうと思うてな。で、決まったかの?」

いや、いきなり言われても困ります。

「…薫…一緒…寝たいの…誰…?」

白梅が思いっきり詰め寄ってくる。右手をぎゅっと掴む。その目は少し潤み、顔はほんのりと赤い。そんな単刀直入に聞かれると、困りますってば。

「薫〜やっぱり俺と一緒がいいよにゃ!」

たまが大きくアピール。僕のワイシャツを前から引っ張る。下を覗くと、無邪気な笑顔が飛び込む。いなりは僕の左手を握り、顔を赤くしながら言う。

「かおる。わし、かおると一緒に寝たい」

夕子は後ろから抱きつき、

「女の子を待たせてはいけませんよ。神島君」

と誘惑する。四方を封じられた僕は、助けてくれと視線で音子さんに送る。音子さんは手を叩きながら割り込む。

「皆さんの愛は分かりましたから、ちょっと待ってくださいね」

4人とも僕から離れる。皆恥ずかしそうに視線をいろんなところに向けていた。音子さんはポケットから携帯電話を取り出し、ある場所に連絡を取っていた。

「もしもし…はい…私です…音子です…あの折り入って頼みがあるのですがよろしいでしょうか……えっと…この前のイベントで使ったものをお持ちしてもらえますか…確かお持ちになりましたよね…ええ。あれです…申し訳ありません。よろしくお願いします…」

電話を切った音子さんは僕に近寄る。

「いい方法があるので、しばらく決断を保留してもらえませんか?」

渡りに船とはこのことで、僕はその後来る波状攻撃を耐え切った。20分ほどして、リムジンがやってくる。それが僕らの目の前で止まり、ドアが開く。中から、白梅と同じくらいの歳の少女が降りてきた。群青の髪が2つ、ピンクのリボンによって尻尾のように結わいてある。瞳の色はオレンジ。少女はちょこんと僕らの前に立つ。

「申し訳ありません…雪音様の御手を煩わせてしまって…」

深々と頭を下げる音子さん。少女はニコニコした顔で、

「いえいえ大丈夫ですからお顔をお上げになってください」

その言葉を受け、音子さんは頭を上げる。少女は僕と音子さんを交互に見て、続ける。

「実は私もいつもあの子から聞く『神島』という御方に、会いたかったのですのよ。ですからあなたからの相談は、真にうれしかったのですわ」

柔らかい物腰をする子だなと思った。少女は僕に向き直り、一礼してから、

「初めまして。私、高野谷 守人の姉で、高野谷 雪音と申しますわ。いつもあの子からお話は聞かせてもらっております。神島 薫様でよろしいでしょうか?」

「あ、はい」

簡単な自己紹介を受ける。そのまま流そうとして、とんでもないことに気づいた。

―今この人、守人の『姉』って言ったよね?

「ええ――――――――!!!!『姉』――――――――――!?!?!?

僕のリアクションに雪音さんは小首を傾げて、

「はて?そうでございますけれども…」

と間の抜けたことを言う。僕はまだ驚き覚めやらずに、質問を続ける。

「えっと…失礼なことをお尋ねしますがおいくつですか?」

「今年で18歳になりますわ」

普通に9歳ぐらいにしか見えないんですけど…

「あれ?副会長じゃないですか。それに補習お疲れ様。神島君」

後ろから声。振り向くと『新聞部』の腕章をした圭太がいた。手にはカメラががっしり握られている。圭太は僕らに近づき、僕と雪音さんを交互に見た後、右手をあごに添え、探偵のように考え込む。

「神島君は今帰りですよね…で迎えに来た服会長…これはスクープな匂いが…」

「しないしない」

僕が突っ込むと、雪音さんは軽く笑う。その笑顔は、守人に似ていた。

「で、圭太。何なんだよ『副会長』って」

僕が圭太に聞くと、圭太は凄く驚いた顔をして僕を見る。その反応で、僕は少し機嫌が悪くなった。圭太は僕が不機嫌そうな顔をしてるのを見て、それを取り繕うと説明する。

「雪音さんは、現生徒会副会長なんだ。先輩から聞いたところによると、現会長である氷塔雲 久臣さんと会長選挙で一騎打ちをしたんだって。人気もほぼ五分。どっちが勝ってもおかしくないって言われるほどの大熱戦で、最終的に僅か1票差で勝敗が決したんだ。それで、現在の地位になったんだって。今でも氷塔雲派と高野谷派で小競り合いするほどらしいよ」

本人の前で説明しすぎです。

「さすが新聞部ですわね。よく調べられておりますわ。けど、今でも私を思っている方と会長を思っている方で争いが起こるのは心苦しいですわね。私は現在の状態でいいと思ってますのに。あのとき、1票でもあの方が生徒会長にふさわしいと思う人がいるのでしたら、私はそれに従い、あの方をサポートすると決めていましたの。それはきっとあの方も同じだと思っていますわ」

器の広い人でよかったです。圭太は「まだ部活の途中なんだ」と言って立ち去る。それを見送った後、雪音さんは思い出したように車の中から緑の機械をいくつか取り出す。無線機のような形状をしており、2つのタイプがある。ひとつは4段階のランプとスピーカーがついており、もうひとつは太いアンテナがついていた。

「これでよろしいですわよね?」

「はい雪音様」

音子さんは僕にライトとスピーカーがついているのを、残り4人に太いアンテナがついているのを渡す。

「にゃんにゃ?これ」

たまが手にとっていろいろと見ている。雪音さんが右手に僕に渡したのを、左手に他の4人に渡したのを持ち、説明する。

「これはビーコンといいますわ」

雪音さんは両方の電源を入れる。右手のほうの機械から電子音が鳴る。ライトは4つまで光り、音の間隔は早い。

「音子さん。こちらをもってあちらまで行ってくださらないかしら?」

「わかりました」

音子さんが離れていくと、電子音の間隔が開き、ライトも光る数が減っていく。そして、200メートルほど離れたところまで行くと、電子音は止み、ライトも光らなくなった。音子さんが戻ってきて、電源を切り説明を続ける。

「本来は山岳救助用ですけれど、このように相手が自分からどのくらいの距離にいるのかを判別できたりする便利な道具ですわ。で、後の説明は音子さんにお任せしますわ」

「わかりました。で、今回なぜ雪音様にこれをお持ちしてもらったかといいますと、ズバリ!今回の問題を決着させるには鬼ごっこがいいと思いまして」

全員が「何で?」という顔をしている。音子さんはそれを無視して続ける。

「で、今回のルールは鬼が4人。逃げる人が1人の変則的な鬼ごっこをさせていただきます。もちろん逃げるのは薫様です。4人の鬼というのはいなり様、たま様、白梅様、夕子様の4人でございます」

「何故鬼ごっこなのじゃ?」

いなりがその疑問を口に出す。音子さんはまた無視し(ただし気づいているのか顔が引きつっている)、

「あと、2回タッチ制を採用します。さすがに1度のタッチでは身体能力差が出ますから、2回目をタッチして初めて有効とします。1回目のタッチの後、そうですねぇ…」

「これをお貸しいたしますわ。ゲスト用の生徒会室認証カードですわ」

雪音さんがポケットからオレンジと青のツートンカラーのカードを取り出す。

「ありがとうございます雪音様。一度タッチしたものは薫様からこのカードをもらい、生徒会室にいる私まで会いに行きます。そのときに、このミサンガを腕に巻かせて頂きます」

音子さんはポケットから緑色のミサンガを出す。

「私も生徒会室にいますわね」

雪音さんがにこりと4人に微笑む。

「そのミサンガをつけた状態で薫様をタッチして私の元まで連れてくること。もちろんかおる様は2回目のタッチ後おとなしくしてください。あと、ジャッジは公平にお願いします」

「じゃから、何故鬼ごっこなのじゃ?」

ついに音子さんが根負けし、よよよと跪く。その後しくしくと泣きながら、

「いなり様は、私をいじめなさるのね…」

と呟いているのが聞こえる。

「いやいやいや」

僕はしっかりと突っ込んだ。すると音子さんは、今度は僕のほうをちらと見ると、

「薫様はドSなのですね…」

ととんでもないことを言う。僕はすぐさま否定し、ちょっとフォローを加える。

「いや、そんなんじゃないですから。あと、何故鬼ごっこを推すのかちゃんと説明したほうがいいですよ」

僕の言葉に励まされたのか、音子さんは立ち上がり、

「やっぱりゲーム性があったほうが楽しいじゃないですか。それにこういうゲームのほうが恨みっこなしになると思うのです」

となんとなく納得してしまいそうな理由を述べる。僕はそれで納得することにし、ビーコンを胸ポケットに入れ、電源を入れる。すぐにピッ、ピッという電子音が鳴る。

「薫様が出てってから10分後にスタートです。逃走範囲はこの学校内ですよ。それ以外から出て逃げたら失格とし、罰として面白いペナルティを考えてあります」

音子さんの言う『面白い』は危険だ。前に音子さんが、帰りが遅かった僕に対してやった『面白い』ペナルティは、数日後まで引きずった。僕は身震いしてしまう。僕に認証カードを渡した後、音子さんが腕を振り上げる。僕は認証カードをポケットにしまい、走る準備をする。

「では行きますよ、よーい…スタート!」

腕が振り下ろされると同時にスタートする。僕は最初小走りで動く。なるべく逃げた方向を辿られないように、建物を使って移動する。実は、鬼ごっこには密かな自信があった。小学校でも随一の逃げ足自慢だ。僕が逃げる側に回ると、守人位しか追いつくことができないのだ。逃げ足だけには、自信がある。

だがそれは甘かった。

開始10分後に4人が動き出し、その5分後、第2講堂に隠れていた僕を白梅が見つけたのだ。僕は講堂の地下に逃げ込み、そのまま裏口や大道具通路を巡って外に出る。外に人影はなく、今見つけられたらやばいだろうと感じ、一目散に走り出す。そのまま道路をひた走り、教育学部棟1号館に侵入しようとしたとき、

「…薫…捕まえた…」

すでに白梅が後ろに追いついていた。白梅は汗1つ掻いておらず、ただ耳がピコピコ揺れていた。僕はポケットに入れていたカードを1枚、渡す。白梅はその後僕に抱きつき、

「…絶対…今日…薫と…添い寝…」

と呟くのが聞こえる。恥ずかしくて、ちょっとそっぽを向いてしまう。僕の顔がガラスに映る。真っ赤だった。その後、僕はそのまま教育学部棟1号館の中へ、白梅は外に出て高等部校舎に向かった。僕はそのまま3階まで上り、渡り廊下で2号館へ向かう。階段の窓でデッキの上を確かめながら、2階に下りてそのまま出口を通りデッキの上へ。そこを横断し、連絡橋を渡って経済学部棟へ。

経済学部棟は舟形の建物で、3階建て。横に長く、いろんな校舎と連絡している。3階の廊下を歩いているとき、ビーコンが鳴る。僕は慎重に廊下を歩く。渡り廊下を見つけ、そこから別の校舎に逃げ込もうと考えていたら、

「見つけたにゃ!」

後ろからたまの声。僕は急いで渡り廊下に入り、隣の社会学部棟の4階に着く。ここは少しだけ段差があり、向こうの校舎とこちらの校舎で階が違うのだ。僕はそこから右に曲がり、階段を下りる。2階に着き、かく乱のために廊下に出て近くの空き教室に潜り込む。息を殺して隠れていると、急にビーコンが早い間隔になる。僕は窓からベランダに出て、近くの木を使って下りようとして、

「木登りは猫の専売特許だにゃ」

上から来たたまに捕まえられ、そのまま木から落ちる。お尻を強か打ち付けてしまった。

「痛てて…」

たまは勝ち誇ったように目の前に立ち、

「早くカードを渡すにゃ!」

と迫る。僕はポケットからカードを取り出し、渡す。僕が立ち上がろうとすると、たまがこちらに手を伸ばす。僕はそれを手に取り、立ち上がる。たまは僕に指差し、

「待ってろにゃ!早々に勝負をつけて、今日は薫のなでなで独占だにゃ!」

と堂々宣言。僕はつい微笑ましくて笑顔になる。たまと別れ、理学部棟に入ったところだった。

「ずいぶん待ったぞ。かおる」

いなりが吹き抜け3階、手すりに寄りかかり、腕組みしながら待っていた。僕はすぐさま引き返す。数秒後、後ろから高いトンという音。振り返ると、3階からいなりが飛び降りていた。高所恐怖症の癖にそんなことできるのかと疑いたくなる光景だ。僕は敢えて、そのまままっすぐ出ずに曲がる。そしてデッキに行く階段を上る。そのままタイミングを見計らって理学部棟に入る。

まさか相手がいると分かっているところに入るという裏をかく戦法。そのまま悠々と階段に向かい、それが間違いだったと知る。中二階の踊り場、手すりの上に、いなりが立っていた。僕はギアを入れ替え全速力で上る。後ろからいなりの気配。ビーコンは至近距離を示していた。4階まで上り、工学部への渡り廊下をひた走る。あの夜の再現みたいだ。

「ふむ。面白い巡り合わせじゃな」

「同感だよ」

いなりの意見に僕も同意する。僕はそのままあの夜のように非常階段から大学部の食堂棟の屋上へ。そしてそこから今度はコンクリートを走り抜け、政治経済学部棟のベランダに飛び移る。空き教室から中に進入し、一気に1階へ。外に出たそのとき、目の前に黄金の光が降り注いだ。気づくとなんてことはない。屋上から非常階段に移り、そこを降りてる最中に僕の姿を見つけ、そのままジャンプし、今、目の前に降り立ったのだ。

「まずは1回目だぞ。かおる」

いなりにタッチされて我に返る。僕はポケットからカードを出し、いなりにそれを渡してから、すぐに逃げようと踵を返し、走り出そうとして袖を引っ張られる。僕が振り向くと、真っ赤な顔をして、俯いたいなりがそこにいた。

「どうしたの?具合でも悪いの?」

心配になって聞いてみる。いなりは本当に小さな声で、僕にしか聞こえないほど小さな声で言う。

「かおるがあんなところに逃げるせいで、おむつの中が、おむつの中がおしっこで、ぐじょぐじょじゃ。だから…はよう…換えてくれぬか…」

やっぱり怖かったらしい。消え入りそうな声でそう訴えられてはもうしょうがない。僕はいなりを連れ、政治経済学部のトイレに入る。最近バリアフリー工事をしたため、多目的トイレがあるのが幸いだった。鍵をかけ、スカートの中、さらにおむつの中に手を入れる。中は本人が言うとおり、おしっこでいっぱい濡れていた。僕はそれを確認すると、ゆっくりとおむつを下ろす。全体的に黄色く染まった内側。また温もりが残っていて、アンモニアの香りも凄い。

「うう〜恥ずかしいのう〜うう〜…」

いなりは僕におむつの中を見られるのが嫌いだ。見るといつも罵声を飛ばすし、妙なことを口走る。しかし、実際は恥ずかしさが一番のようだ。いつも中を見られるたびに、顔を耳まで真っ赤に染めるからだ。今だってそう。いなりは罵声を飛ばす前に、恥ずかしさで冷静でなくなり、両手で顔を隠すことしかできない。

最近、外に出るときはおむつ換えセットが入ったリュックを持っていくように皆に言いつけたため、今日も背負ってきている。そこからウェットティッシュを取り出し、大事なところを拭く。それから新しい紙おむつを取り出し、いなりに履かせる。ピンク色のかわいい紙おむつ。最初はこれも恥ずかしがっていたが、最近はすっかり定着したそうだ。

尻尾はおむつのお尻のところから生えているように出ている。なんでも物理干渉させない状態にしてるとか。耳がぴくぴく小刻みに動くのは気持ちよくなった証拠と、最近覚えた。いなりは遠くから鏡を見て、自分の服装を確かめる。それから伸びをし、僕に向かって毒を吐く。

「まったく…人の粗相を見るなんてやっぱり薫は変態じゃ」

僕はそれを否定してから、トイレから出る。

「かおる」

出た途端に呼び止められる。僕が振り向くといなりはグッジョブポーズをして、

「ぐっとらっくじゃ!」

おそらく意味はあまり理解してないだろう。それでも僕も同じようにポーズして、

「ああ。グッドラック!」

と返し、別方向に分かれる。隠者の森まで逃げて、森の中で一息つき。仰向けになり休む。10分ほどして、ビーコンが鳴る。僕はすぐに起き上がる。周囲を見渡す。が、姿は見えない。立ち止まっては危ないと思って、歩き出す。機械音の間隔が短くなったり長くなったりする。それを4回ほど繰り返して、森の入ってから初めての至近距離反応。しかし、姿が見えない。辺りを見回していたときだった。誰かの手で目を塞がれる。

「だーれだ?」

「…夕子」

「正解〜♪」

手がどかされる。振り返ると、夕子が逆さ吊りになっていた。否、足で木にぶら下がっていたのだ。

「ここは私の領域ですよ。神島君」

夕子から忠告を受ける。僕は夕子にカードを渡し、そのまま森を出た。


「で、それからさらに15分ほど逃げ続けたと言うことかあ?」

僕は大きく頷いた。孝太はやれやれというジェスチャーをし、

「君たちは暇だねぇ」

と評する。ぼくはムッとしたが顔には出さないでおく。孝太は僕に向かって笑いかけた後、言う。

「ふーん…そういうことならいい方法があるよ。まあ、僕を信じてちょっと賭けをしてみてもいいんじゃないかなあ?」


――ピンポンパンポーン。校内におります、神島 薫様。神島 薫様。至急、図書館正面口前まで、おいでください。ポンパンポンピン――


何じゃ。今の放送は?

わしはそれを判断しかねていた。いきなり薫の名前を言う放送。それも図書館正面口に行けという指示内容。これは罠か?

思考を巡らせていると、見知った顔に出会う。

「あれ?神島君のところにいる子供じゃん」

「結か?」

天童 結。先程の七不思議事件で同行した間柄じゃ。

「どうしたの?迷子?」

興味深そうにこちらを見るのは相変わらずじゃの。きっと物珍しいからじゃろう。

「そうではないぞ。鬼ごっこの最中じゃ。わしが鬼役で、今かおるを追ってるのじゃ」

わしは何も飾らずに答える。結は「へぇー」と感心してから、

「そういやさっき誠二の放送があったわね」

と思い出したように言った。さっきの放送は彼女の弟である、天童 誠二のものかの。だとすると信憑性がないのう。あちらはかおるとも顔なじみじゃ。なら、虚偽放送でこちらをかく乱するかもしれんの。

「罠かもしれんのう」

つい口に滑らせてしまう。結はそれを聞いて、

「何?罠って」

と問う。わしは一拍おき、説明する。

「…というわけじゃ」

「ふーん…でもさ、とにかく行ってみればいいじゃん。あたしも一緒に行くしさ。もしダメだったらまた探せばいいじゃん」

彼女の言葉に、突き動かされた。そうじゃな。罠だって何だって、別に死ぬこともなし。行ってみるのもいいかの。わしはそのまま、結と共に歩き出す。かおるが待っているという、図書館へと。


部活が終わり、友紀と一緒に帰る。晴香はまだピアノの練習があるから遅くなるとのことだった。私たちはくだらない世間話をしていると、職員室近くで見知った子供を見つけた。

「おーい!白梅ちゃーん!」

真っ白な少女?が振り返り、赤い双眸がこちらに向けられる。ちょっと潤んでいるように見える瞳。友紀が白梅ちゃんに話し掛ける。

「白梅。あんたここで何してんの?」

友紀は毒のある話し方をするけど、根は優しい。きっと心配しているのだろう。白梅ちゃんはもじもじしながら言った。

「…鬼ごっこ…迷っちゃった…」

「はあ?あんた足速いんだし、逃げるほうも追うほうも得意でしょ?」

白梅ちゃんがちょっと泣きそうな顔になる。友紀はちょっと言い過ぎたと反省し、謝る。白梅ちゃんはすぐにほっとした顔になり、

「…薫…探さなきゃ…またね…昌…友紀…」

と言って、一礼して去ろうとする。が、その歩き方であることに気がつき、腕を掴む。

「…昌…?」

耳がピクッと動く。私は小さな声で聞く。

「おもらし、してるでしょ」

白梅ちゃんは顔を赤くし、小さくコクンと頷いた。私はそのまま白梅ちゃんの手を引く。

「ごめんね友紀。校門で待ってて!」

友紀は私のすることを察し、「わかったわよ。早めにね!」と返してくれる。そのまま女子トイレに駆け込む。一番奥の洋室トイレに入り、鍵を閉める。肝試しのときに背負っていたのと同じリュックだ。中を確認すると、しっかり一式揃っていた。白梅ちゃんに、蓋を下便座の上に座り、スカートをたくし上げるように指示する。中から、オレンジ色のおむつカバーが顔を覗く。今日の白梅ちゃんは、布おむつをつけているのを示している。

「じゃあ、おむつ開けるね」

カバーのマジックテープをはがす。ビリビリッという渇いた音が2度、トイレの中に響く。前あてを開くと、中から黄色く染まった布おむつと、男の子の証が覗く。私はつい、顔を赤くしてしまう。白梅ちゃんを見ると同じように顔を赤くしていた。はにかむような、自虐のような笑みを浮かべている。本当に恥ずかしいと笑いたくなるというの本当だなと思った。

前にこのことを守人さんに聞いたとき、笑顔で取り繕うからだと、言っていた。おむつをはずし、リュックの中にあるビニール袋の中に入れる。幸いカバーまでは届いておらず、このままおむつを換えれば使えそうだ。

「じゃあ、拭くよ…」

ウェットティッシュで大事なところを拭く。ママが正樹にやっている時は温タオル使っていたな…ということを思い出した。

「…ふわ…」

白梅ちゃんが、右手で口元を隠し、目を閉じてそんな声を出す。

「ごめん!痛かった?」

心配になって手を止めて聞く。白梅ちゃんは首を横に振り、違うという意思表示をする。私は気をつけながら、それでいて丁寧に大事なところを拭いた。それから腰を浮かせてもらい、おむつを滑り込ませる。位置調整し、前あてを閉じ、今度はピタッとマジックテープを張る。

「もう降りていいよ」

白梅ちゃんは便座から降り、気持ちよさそうに和やかな表情をしている。耳がぴょこぴょこ動く。2人でいるには狭いため、私は個室のドアを開ける。2人でこう並んでいると、どう見ても女の子2人組にしか見えない。白梅ちゃんはこちらに振り返り、ぎこちない、けど優しい微笑みを見せ、

「…ありがとう…昌…」

と言ってくれる。それが犯罪的にかわいくて、私は同じように微笑んで、

「鬼ごっこ。がんばってね」

と励ました。白梅ちゃんは一度頷き、自信満々な表情で、

「…うん…絶対…薫…捕まえる…」

と言って走ってトイレを出て行った。私は手を洗い、いい気分でトイレを出ると、

「最近やけに白梅と仲いいじゃない。もしかして付き合ってんの?あいつ男でしょ?」

トイレの外で友紀が壁にもたれながら待っていた。私はそれを大きく否定する。

「違うって。きっと私白梅ちゃんのこと妹として見てるだけだって」

「どうだか。その表情は怪しいんだけど」

友紀の指摘に、私は別の糸口で反撃する。

「そもそも友紀はどうしてここにいるのよ。校門で待っててって言ったよ。私」

「あんたたちが遅いから気になって来てみれば、白梅が高速で走って行っちゃうし、あんたは凄く気持ちいい表情で出てくるし。こんなことなら先に帰ればよかった」

ちょっと友紀の機嫌を損ねてしまったようだ。さらに友紀の言葉が私の帰り道を憂鬱にさせることになる。

「まあ、詳しい話は帰り道、2人でゆっくり…あたしに教えてくれっしょ?」

何とか友紀の納得のできる言い訳を下駄箱までに考えよう。そう決めて、私はまずは廊下を歩くことにした。下駄箱まで4分。それまでに言い訳、思いつくかなと不安になりながらも。


「うにゃにゃにゃにゃーーーーーー!!!!!

遠くでたまが幼稚舎の子供に捕まっているのが見える。あんなふうに猫耳と尻尾を出しているのでは、子供が物珍しくて触りに来るだろう。威嚇していてもあんまり怖く見えないのか、いっぱい群がっていた。そういえば今日は幼稚舎の人形劇があると電子情報版に載っていたのを思い出す。

「悪いけど、そのチャンスはいただくよ」

ひとりでに呟いてしまう。僕は気づかれないようにちょっと遠くの出口から放送部棟を出る。そこから歩行者用道路を通り、図書館の正面口からちょっと離れた道路を走り抜ける。ビーコンが鳴る。中等部グラウンドの向こうに大小の姿が見える。小さい方は黄金色の髪をしている。

「見つけたぞ!」

いなりが僕の姿を見つけ、切り返しをして、グランドを横断する。グランドの端に『新聞部』の腕章をつけた浩の姿を見つける。僕は浩にアイサインを送る。浩は頷き、連絡を送る。

「…薫…いた…」

十字路に出たとき、左方から白梅の声。僕はすぐに右に切り返し、そのまままっすぐ隠者の森に向かう。作戦は順調のようだ。このまま2人を引き付ける。

全速力。逃げ足だけは、伊達じゃない!!!

なるべく離さないように、距離を調節しながら走る。斜め上から、音。たまが木から木へと飛び移りながらこちらに追いついたようだ。

「逃がさないにゃ!」

たまが僕に飛び掛る。僕はそれを屈んで避ける。バランスを崩し、転びそうになるが何とか持ちこたえて走り続ける。車両進入禁止の柵を飛び越え、そのまま隠者の森の小道に突入。細かいカーブをイン・アウト・インで通る。

途中、麻紀とぶつかりそうになり、それをぎりぎりで避ける。麻紀は凄く怒っていたが、それを聞いている余裕はない。さらに少し走ってから振り返ると、いつの間にか負っているのが白梅1人だけになる。これも計算の内。そのまま大きな木があるT字路で立ち止まる。後ろには白梅、右にはたま。左にはいなり。そして前の木には、

「だからこの森は私の領域ですよ。神島君」

案の定、夕子が待ち伏せしていた。ここまで作戦通りだ。僕は敢えて、木から届きにくい距離に立つ。夕子は地面に降り立つ。僕が動かないのを不思議に思っていたが、チャンスとばかりに手を伸ばし、

僕は四方から同時に体を触られると同時に、光を浴びせられる。

全員が「えっ?」っていう顔。まさか同時に触るなど思わなかっただろう。そのまま我先に、僕の腕を掴んで引っ張ろうとして、

「ちょっとこれを見てみてもいいんじゃないかな?」

圭太の言葉に遮られる。圭太が持っていたのはデジカメ。そこにはほぼ同時に僕の体を触る4人の姿が鮮明に映し出されている。が、それでも違いは分からなかった。僕はここで作戦通りの宣言をする。

「これじゃはっきり分からないし、ジャッジもできないから、今日は引き分けってことで。だから誰とでも添い寝は無し」

4人が凄く落胆した顔をする。作戦とは、4人が同時に触り、勝負が分からない状況にして、引き分けだと偽装すること。そうすれば誰も選べなくても、文句が出ないだろうということだった。いなりが僕をじっと見つめて、言った。

「かおる。わし、昨日寝とらんし…一緒に…寝たい…のじゃが…」

それは彼女から聞く数少ない甘えの言葉。顔を赤くし、もじもじしている。自分で言ってて恥ずかしくなったのか、僕の顔を直視しようとしない。いつもは長姉だから甘えないからこそ、その甘えはとても恥ずかしくて、うれしくて、すぐにでもそれに応えてしまいそうだった。それでも、何とか我慢する。僕は話題をそらそうと考えていたとき、

「神島!」

守人が大きなスーツケースを持ってこちらに近づいてくる。後ろには音子さんと雪音さんが一緒だ。

「守人?どうしてここに?というかその荷物何?」

「話は姉さんと音子さんから、ここにいるのは英之介から。麻紀からひどい抗議の電話があったらしいぞ。僕はこれからヨーロッパ一人旅。高野谷家の成人前の試練ってとこかな。詳しいこととは音子さんも知ってるから、聞いてみてくれ。で、決着はどうなったんだい?」

僕は最終的な経緯を教える。守人はやっぱりという顔をして、雪音さんと音子さんを見る。先に口を開いたのは雪音さんだった。

「実は、その勝負は無効になりましたわ。と言うよりも、別の解決策が見つかったというところですわね。さすが守人ちゃん。頼りになりますわ」

雪音さんは朗らか笑顔で言う・守人は珍しく困った顔をして、

「僕はもうそろそろ行くけど、姉さんはちゃんと兄さんと暮らすんだよ。最近忙しいからって会ってないだろ?」

雪音さんの顔が、不機嫌なものに変わる。

「いいんですの!あの人と私は仲悪い程度でちょうどいいんですの!」

子供みたいに駄々をこねる。守人は「しっかりやってよー」と言い残し、またスーツケースを持ってこの場から退場した。ずいぶん重そうだが、あれには何が入っているのだろう?

「で、解決策というのを教えていただきたいのですけれど…」

僕は恐る恐るという感じで聞く。音子さんは「あ、すいません」と軽く誤ってから、

「えっと…それには一度お帰りして、すぐに荷物をまとめていただきますけどよろしいですか?」

いきなりのことで、戸惑ってしまう。他の4人も頭に?マークがついている。とにかく理由が聞きたくて、質問する。

「えっと、それはどういう…」

「単刀直入に申します。薫様は高野谷家の別荘に招待されました」

まったくわけが分かりません。

「実は、私がこの問題のことを守人様に申したところ、『なら、家の空き部屋にあるあのどでかいダブルベットでも使えばいいんじゃないか?あれなら5人ぐらい縦に練れるだろうし、添い寝も万事解決だろ?』と仰っておりました。私は目から鱗が落ちました。というわけで、勝負は無効で、薫様たちは荷物をまとめ、明日旅行に直接行けるよう準備をしたうえで、高野谷家まで来ていただくということです」

ようやく理解に至る。だだ、本人達のいないところで、こんなこと決めないで下さい。僕らはそのまま一度帰宅し、荷物をまとめ、リムジンに乗り、高野谷家へ。

「聞いてはいたけど…大きいなあ…」

感嘆符がついてしまいそうな大きさ。さすがは高野谷家の別荘だ。普通の家より数倍も大きかった。作りは北欧風で、2階建て。屋根裏部屋もあるのか、屋根にも窓がある。庭も凄く広い。音子さんに案内され、中に入る。

「ようこそおいで下さいました」

リアルステレオとはこんな感じなんだろうなと思った。左右から何人ものメイドさんに挨拶される。白梅がものすごい勢いで僕の後ろに隠れる。僕はというと、この家の凄さに驚いていた。まず天井がものすごく高い。吹き抜けになっていて、正面に大階段、そしてその先には2階部分がある。その大きな階段の上に、雪音さんが私服を着て降りてくる。雪音さんは白いブラウスと薄茶色のベストを着て、下はピンク色のミニスカートだ。

「いらっしゃいませ。こちらですわよ」

音子さんと雪音さんに連れられて、移動する。ずっと後ろで白梅がびくびくしてるのが分かる。興味深そうにいなりと夕子は周囲を見渡し、ただほけーっとしているだけだ。そうこうしてるうちにいつのまにか、僕ら今夜泊まる部屋に着く。

どこぞのスイートですかここは。

とにかくベッドがでかい。それも天蓋までついている。ソファもピュール製で、その目の前にはシアターオーディオ付の42インチの液晶テレビがついている。トイレとシャワールーム付という至れり尽くせりの内容だった。

その後すぐ夕食になるが、それもとても豪勢だった。いなり、たま、白梅の3人はテーブルマナーがわからず戸惑っていたが、そこらあたりは雪音さんや音子さんがフォローしていた。僕と夕子は何とかマナー通りやろうとして必死で、そういうことにまったく気づけなかった。

その後、部屋に戻る。が、全員揃ってから違和感に気づく。

「なぜ雪音さんがここにいるんですか?」

いつの間にか雪音さんが紛れ込んでいた。雪音さんは夕子と会話していた。こうして並ぶと、同い年、いや雪音さんのほうが若く見える。白梅は気づいていたようで、僕の後ろから離れない。雪音さんは僕を見て、

「あの、まことに私勝手のお願い事なのですけれど…聞いていただけますか?」

と尋ねる。僕はジェスチャーでOKという意思表示をした後、雪音さんに続きを言うように促す。雪音さんは「ありがとうございますわ」と礼を述べた後、

「私、その、おむつ換えというものを体験してみたいのですわ」

と頼み事を言った。

「構わないけど、どうして?」

僕が逆に質問すると、雪音さんはちょっと陰りのある表情をし、

「私、子育てというものを体験したことはございませんの。守人ちゃんが生まれたときも事情があって、私はなかなか守人ちゃんと会えませんでしたから…」

と懐かしむように言う。何か複雑なことがあったようだ。後で守人に聞いてみることにする。僕は事情を理解した上で了承し、4人に集合を掛ける。4人はすぐ僕の下に集まる。僕は、4人に事情を説明した後、1人ずつおむつの中に手を入れる。

「漏らしちゃったのは…たまと夕子かな」

口に出されると恥ずかしいみたいで、2人ともちょっと顔が赤い。そこで、僕が隣でたまのおむつ換えをし、それを見ながら雪音さんが夕子のおむつ換えをすることになった。夕子はワンピースをたくし上げ、たまは半ズボンを脱ぐ。夕子は黄色の無地の、たまは白に虹がプリントされたおむつカバー。下におむつ換え用マットを敷き、そこに座らせる。

「まず。前あてを開いて…」

僕がたまのおむつカバーのマジックテープをはがすと同時に、雪音さんが夕子のオムツカバーのマジックテープをはがす。左右両方はがし終えて、前あてが開く。たまの中のおむつはぐしょぐしょだった。夕子のはそれほど量があったわけでなく、おむつがほんのりと黄色く染まっていた。

「たまはおむつカバーも変えなきゃだめかな…雪音さん。中のおむつを抜いて、この袋に入れて」

「わかりましたわ」

それから、雪音さんは夕子の秘所を丁寧に拭いていく。特別に用意された温タオルで、それで拭かれて気持ちいいのか、夕子は拭かれる度に「はひゅ」や「んっ」といった喘ぎ声を出していた。僕はたまのおむつカバーもおむつと一緒に袋に入れ、それから温タオルで大事なところを拭いていく。

「こ、こしょばゆいにゃ…」

そう抗議するが僕は聴かないことにした。尻尾がくねくねと動く。きっとくすぐったいのを我慢しているのだろう。雪音さんは夕子の秘所を綺麗に拭くと、それから新しいおむつをカバーの中に滑り込ませる。初めてとは思えない慣れた手つきだ。僕はたまに新しいおむつカバーを用意する。色は水色。雲のアップリケがあしらわれたものだ。僕はそれをたまの股の下に滑り込ませ、すばやい手つきでつけてゆく。

「これで完成っと…」

2人のおむつ換えは無事完了した。雪音さんは「やりましたわ」と大きくガッツポーズ。僕も雪音さんを褒める。そのときの笑顔は、子供の頃自転車にはじめて乗れたときの真琴に似ていた。2人とも新しいおむつが気持ちいいのか、とても笑顔が軽やかだ。

それからお風呂に入り、いろいろ話しているうちに、1人、また1人と舟を漕ぎ始めた。

「それじゃ、寝よっか」

僕の言葉を皮切りに、皆片づけをして寝る準備をする。音子さんが部屋を出て行き、4人をベッドに連れていったが、誰も入りたがらない。眠そうな白梅やたまでも。

「どうしたんだ?早く寝ようよ」

僕が促すと、いなりがこう言った。

「薫が先に入って真ん中に行かんと、皆が寝れんじゃろ?」

それでようやく気づく。今日はどうして鬼ごっこなんてしたのか。なんで高野谷家で寝ることになったのか。

「…ごめん。そうだったね」

僕がベッドに入り、真ん中まで行くと、右にいなりと夕子。左にたまと白梅が入ってくる。4人は僕の体に触れたりして、相違ねしてもらっていることを実感しているみたいだ。そのまま電気を消す。補助灯だけの薄暗い部屋。それでも怖さは感じない。みんなの温もりが、凄く心強い。

「皆で寝ると温かいにゃー…」

寝言のようなたまの声。

「そうじゃな。かおると添い寝もいいが、皆で寝るのもずっといいもんじゃな」

柔らかいいなりの笑い声。

「…薫…みんな…一緒…うれしい…」

白梅の耳がぴこんと動く。その後かわいいすうすうという寝息が聞こえた。

「久しぶりです。こうやって温かい気持ちで寝られるのは…これもあなたのおかげですね。神島君」

夕子が僕の腕を抱きしめながら言った。僕はずっと天蓋を眺めながら思う。今日は馬鹿馬鹿しいことをしたけど、とても楽しかった。それは何故だろうか?

―決まってる。彼女達がいたからだ。出なければこんなに楽しいことはない。それから、ゆっくりと眠りにつきながら今日を反芻する。こういう疲れが、凄く気持ちいいと感じるのは久しぶりだ。そうあれは小さいときの…なんだっけ?まあいいか…。やがて僕も眠りに落ちた。今日という楽しい日の余韻に皆浸りながら、ゆっくりと眠りにつく。明日から帰省旅行。その旅行の毎日が、こういう風に面白い日であるようにと祈りながら。


――このとき、彼らはこれから起きる幸せと不幸せの物語が始まりかけていたことを、まだ知らなかった…

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