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トップ  >  黒人形作  >  cross drive  >  cross drive 第三話 3R 〜Red Rain Recollection〜  3rdR RECOLLECTION=HEARTS
―――雨の音がする。
俺は必死に走っている。ずっとずっと走り続けているのに、疲れは感じない。体まで風になった気分だ。気持ちいい。森の中をひた走る。この森は俺達の庭。まるで木が俺から避けてくれるみたいだ。障害物と感じない。
―――見つけたのは大人たちの群れ。その中にいる、1人の女の子。
俺はいつも狩りに使う槍でその軍勢に突撃する。軍勢は虚を疲れてまともに動けなくなる。俺は1人1人、殺していく。赤い水を浴びる。10人目で槍が折れる。一旦後ろに退き、倒した奴が持っていた矛を取る。もう一度突撃。身軽に大人を狩っていく。今度は24人目で折れた。
―――体が真っ赤に染まり、周りには赤い水を噴出す人だったモノ。
俺はまた武器を探そうとして辺りを見回す。逃げればいいのに、俺に向かってくる大人。探すのも面倒になって、俺は自分の腕を相手に突き刺す。腕は他のどんな武器よりも鋭く、いとも簡単に殺してくれた。目に赤い水が入る。ちょっと痛い。俺はもうどうでもよくなり、残っている大人たちを無差別に狩る。最後に自分の親だったモノを狩り、辺りを赤い水の池に変えて、俺は悠然と少女の下へ。
―――少女は怯えた表情でこちらを見る。顔に返り血を浴びていた。俺はというと服も体も真っ赤で、生き物臭い。
僕は少女に向かって一言、助けに来たと伝える。少女は僕の顔をじっと見た後、ゆっくりと後ずさりしながら叫ぶ。
お前は、兄ちゃんじゃない。兄ちゃんの姿をしたバケモノだ!来るな、バケモノ!兄ちゃんを、返せ!
俺はようやく自分の姿を省みる。体中に人の返り血を浴び、ゆっくりと体は変貌し、人の体ではなくなっていた。怯える妹の目。俺はその目が怖くて、怖くて。
―――見るな。俺をそんな目で見ないでくれ。そうか、そうかお前も…
――バ・ケ・モ・ノ・ダ・ッ・タ・ノ・カ――
殺さなきゃ。バケモノは殺さなきゃ。俺はそのまま、助けたかったモノにさえ牙を向く。やっとその体が生命活動を停止したときに気づく。本当のバケモノは俺自身だったと…

―――時間間隔が狂っていく。
当然だ。こんな暗闇では自分がいつまで眠っていて、今何時なのかなんて分かるはずもない。呼吸音は2つ。1つは僕のもの。もうひとつは母さんのもの。それだけが僕の立ち位置を教えてくれた。静寂と暗闇。こんな中で自分を保っていられるほど、僕は仙人ではなかった。ゆっくりと自分を見失っていく。
「薫ちゃん…負けちゃ…だめよ…」
母さんの励ましで何とか繋いでいる自我。母さんだって苦しいはずなのに、僕は母さんに何もできない。僕は母さんに眠ることを言って、そのまままた深い眠りへ。これの繰り返し。それ以外に僕のすることはできない。深い脱力感が眠りには心地いい。
――真琴が死ぬタイムリミットまで、あと12時間06分14秒。

屋根の上から中庭を覗く。中には薫の妹。真っ白い着物を着て、池の鯉を眺めている。
「真琴お嬢様。時間です」
召使がやってきて、真琴を連れて行く。真琴は虚ろな表情を浮かべていた。俺はそのまま下りて助けたい気持ちを抑える。今降りて行ったところで、どうせ助けられないのは目に見えている。家の至る所にあのスーツ姿の男がいた。どれも細かいところは違うが昨日使った飛び道具を持っていた。そのまま静かにこの場所でチャンスを伺う。絶対、確実に助けるために。
――真琴が死ぬタイムリミットまで、あと11時間35分23秒。

また、目覚める。今度は自然な目覚めではない。外が騒がしい。この地下牢に響くほどの大きな音。銃声さえも聞こえる。外の様子が気になるが、この牢からは何も分からない。やがて、騒ぎの音が大きくなり、それがこの牢屋にもはっきり聞こえるようになる。
「なんだありゃ!?」
「おい!どうなってるんだよ!」
「こ、こっち来んな!」
「熱ぃ!こいつぅ!」
「マズイ!地下牢に行ったぞ!」
その騒ぎの主が、地下牢に降り立つ。途端に光。暗闇に慣れた目には痛い、眩い光。その光がこっちに近づく。のしっのしっという音。光が僕の前で止まる。ゆっくりと光に慣れた目に映ったのは…
黄金の毛を持つ、九尾の狐。その上には見知った顔が1人。
「し、白梅?っていうことは…」
白梅は狐から下りると狐が眩い光を放つ。僕が目を閉じ再び開くと、そこにはいなりが素っ裸で立っていた。
「助けに来てやったというのに時化た面しとるのお。もっと喜ばんか」
相変わらずの毒舌。だがそれが、僕の心を潤わしていく。今度はうれしくて、涙が溢れる。
「な、なんじゃ?どうしたどこか痛いのか?」
いなりはあたふたしながら心配する。白梅が檻を開け、中に入ってくる。僕に触れ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…大丈夫…大丈夫…みんな…ついてるから…」
その言葉が、とてもうれしくて。僕はたくさんの涙を流す。だが、それを銃声がかき消す。いなりは僕のいる牢に逃げ込む。
「泣いとる場合じゃないぞ。まずはここを出なければならぬ」
いなりは白梅のリュックから衣服を取り出し、着る。オレンジのミニスカートに黄緑と黄色のセーター。白いハイソックスを穿いた時、目つきが変わる。最後のおむつは、僕が履かせる。白梅といなりはアイコンタクトを交わし、白梅が牢屋から出る。
「白梅!危ない!」
その心配は杞憂だった。白梅は30秒で、銃声を黙らせる。僕は手早くいなりにおむつを穿かせる。ちょっと大き目の布おむつ。おむつカバーがスカートからはみ出している。尻尾はおむつカバーから伸びている。なぜか1本だった。いなりの耳が小刻みに動く。
「よし、一気に行くぞ!母上殿はわしらの後に」
白梅が母さんを外に出し、一緒に連れて行く。階段を上り、中庭に面した廊下に出る。
――月明かりが眩しい。
時刻は夜。空は雲ひとつない快晴。星が僕らを見下ろす。2割ほど欠けた月が、空に輝いていた。だが、そんなことを悠長に感じている余裕はない。中庭は戦場と化していた。飛び交う銃声と怒号。スーツ姿の男たちが中庭の茂みから玄関の方を撃っていた。玄関のほうから、人影。
「銃もまともに扱えねぇひよっこが…いいか、銃っていうのはこう遣うんだ」
右手にデザートイーグル、左手にM16(アサルトライフル)。明らかに片手で扱えない銃を両手に持ちながら、1人の男性が出てくる。年は40前半。ぼさぼさの髪の毛はいかにも手入れしてませんという風貌。右肩から斜めにケースを背負っている。体は筋肉質。だが、隆々としているわけではなく、脱いだらすごいという類のもの。
「おらおらどうしたぁ!」
デザートイーグルが火を噴く。茂みの中から呻き声。そこから、1人の男が倒れる。右肩を撃たれたのか、ずっとそこを左手で押さえていた。
「少しは当てたらどうだ!ああん!?」
銃弾の中を縦横無尽に動き、違うタイプの銃で確実に相手を倒していく。が、所詮1人。いつの間にか追い詰められていた。そこへ、
「やれやれ。依頼があったからとはいえ、こんな馬鹿正直に突っ込む人と組まされるとは…思いもよりませんでしたよ」
トンファー2丁だけで敵を薙ぎ倒していく猛者が1人。瞬く間に包囲網は破れていく。痩せ型に細腕。明らかに場違いな好青年。だが、目は獲物を捕らえた鷹のように鋭い。髪の毛は銀色。瞳は赤色。ワイシャツをラフに着こなし、スラックスが妙に決まっている。背も誰もが羨むほど高い。彼に向けられたいくつもの銃弾。それを彼は自分の武器だけで弾いていく。
「これはレニウム製でしてね。9mmパラべラム弾程度ではびくともしませんよ」
トンファーが、舞う。因果応報。彼を撃った者はこうして薙ぎ倒されていく。2人揃った姿は、嵐。ものの数分で銃声が止む。先に男性のほうがこちらに気づき、近づく。男性は先ほどとは違った、緩んだ顔で母さんに抱きついた。
「石英さん…」
「おお可哀想に…我が愛しの朱乃…」
そう、この男性が僕と真琴の父親であり、母さんの夫である神島 石英その人である。熱い抱擁を3秒ほどした後、2人は自然に離れる。加算は不思議そうに父さんに聞く。
「石英さん、どうしてここに?」
「朱乃が大変だと聞いて、すぐにイギリスに逃げ込んだ指名手配犯を捕まえてここまで特急で来たんだ。これも全て君のためさ…」
そういえば父さんの仕事を紹介していなかった。父さんはとてもややこしい職業をやっている。何故ややこしいかというと、この仕事をやっているのが父さんを含め数名だけだからだ。その職業の名は『世界広域捜査員』。別名『WWI(World Wide Investigator)』。どの国でも無条件で銃火器を所持できる数少ない存在だ。主な仕事は国際指名手配犯の逮捕、国家機密への査察などがある。父さん曰く「FBIとCIAとICPOを足して3で割ったもの」らしい。
「そんなところで抱擁はいいですから、早くいろいろと説明しなければならないこともあるでしょう。僕たちの仲間も外で待たせてますし」
青年がやってきて、父さんに向かって言う。青年は僕を見た後、父さんを見て、
「守人はこんなのが趣味なのか」
と口走る。僕は『守人』というワードに反応する。
「守人って…高野谷 守人ですか!?」
「ああ、申し遅れましたね。僕は高野谷 守人の兄で高野谷調査社社長の高野谷 銀之助といいます」
あの家は一体どういう家系なんだろうか?無敵超人が2人居て、その間が不老を体現したような少女。銀之助さんはポケットから無線機を取り出し、
「こちらアサルト01。救出対象αを発見。これより保護する」
――こちらアサルト04。了解しました。予定通り20:30時に目標に向かって突入します。
と連絡をしあう。無線機を切ると、今度は僕らの方を向き、
「で、君たちはこれから救出対象βを助けに行くのですか?」
と聞く。いなりはその言葉に対して頷きで答え、
「真琴はわしらの大切な友達であり、家族じゃ。そこにいる薫の父上のように、わしらも真琴を助けに行く。最初からそういう手筈じゃろ?」
と逆に聞き返す。そこで僕は真琴のことを思い出す。僕がすぐにでも走り出そうとしているのを、白梅が僕の腕をつかむことで、止める。
「どうして止めるんだよ!」
僕は白梅の手を振り払おうとする。白梅はその細腕から出てると思えないほど強い力で握り、離さない。その口が、静かに開く。
「…真琴…いない…ここ…」
僕を落ち着かせるように、諭すように、ゆっくり静かに話す。僕はそれではやる気持ちを抑えた。いなりが、僕が落ち着いているかを確認してから、これからのことを説明する。
「これからわしらは別行動じゃ。わしと夕子と白梅、かおるで真琴救出班。夕子は今気づかれないように真琴を連れて行ったやつを追っておる。たまはどこにいったかは知らぬが、おそらく思いは同じじゃ。まあ、こっちは暴走するかも知れぬ。見つけ次第何とかせないかんの。で、父上と母上殿、銀之助殿とその仲間はここの制圧をすることになっておる。詳しい情報、状況は走りながらでもいいじゃろ」
説明が終わると同時に銃声。それを銀之助さんが弾き返す。
「長居は無用です。先に進みなさい」
銀之助さんはそのまま銃弾が飛んできたほうへ走る。父さんは肩に背負っていたケースを空け、中から銃を取り出す。それを母さんに渡した。アサルトライフルだが、スナイパー用に改良された照準が眩しい。明らかに歩兵の狙撃銃だ。母さんはそれを採ると、哀愁を帯びた表情になる。
「母さんと父さんがこっちをやっておくから、マコちゃんをよろしくね」
「いつの間にかモテモテのようだな。我が息子よ!そのモテぶりに恥じないようにしっかり女を守れる男になれ!父さんのようにな。妹を守るのはその試練の第1歩だぞ。…がんばって救って来い。父さんたちは真琴には何もできないからな。きっと、真琴が今一番来てほしいのは、薫。お前だと思うぞ」
2人も戦場へと歩いていく。僕はそれを見送りながら走り出す。廊下の細かい曲がり角をステップで切り抜ける。遠くに聞こえるのは銃声と怒号。それを振り切るように走り続ける。
「保守派が宗家を乗っ取り、クーデターを起こしたようじゃ。首謀者は米山 紀伊左衛門。賛同者は保守派の分家。メインで動いているのは酒田家じゃな。あの家はやくざか何かかの?」
いなりがしっかり情報を教えてくれる。父さんと銀之助さんに情報をリークしたのが和人さんだということ。改革派が僕らの代わりに必死に抵抗してくれたこと。たまが、僕らを助けるために車を飛び降りて行方不明なこと。やがて、北の離れに向かう長廊下に出る。向こうにはスーツ姿の男たち。
「いたぞ!しばけや!」
数にして8人ほど。銃を持ってないのか、こっちに向かって走ってくる。
「かおる!下がっておれ!」
いなりが僕らを後ろに下がらせてから、突撃する。僕も続こうとして、白梅に止められる。白梅は信頼した表情でいなりを見ていた。いなりはその表情に答えるように、とても躍動感がある動きをする。
まず、前に来た2人の男の間をスライディングで切り抜け、それから次の2人をジャンプで切り抜ける。黄金色の髪が空に舞う。ついでにスカートも舞う。中のおむつがはっきり見えてしまうほどに。着地したら次に来る男の左をすり抜けて、さらに来る男3人の真ん中にいる、スキンヘッドの男を馬跳びで越える。またおむつが見えた。いなりは気にしてないのか、まったく意に介してない。尻尾がゆーらんと揺れる。最後は優雅に着地する。男たちは眼中にないという感じでこっちに来る。いなりの左手にはお札。そして、そのお札を天にかざす。
「しばらく眠っておれ」
お札を天井に向かって投げた。お札は空中で止まり、赤い光を放つ。すると、僕に向かってくる男たちはがくんと膝から崩れ、倒れる。背中にはお札。こちらも赤い光を放っていた。
「力を奪い取る赤水の術じゃ。これでしばらくは動けんじゃろ」
いなりは振り向いて、自分の術の掛かり具合を確かめる。いなりはすり抜けている最中、全員の背中にこのお札を張り続けていた。まったくそんな素振りは見せなかった。僕はいなりの凄さに改めて気づく。
「行くぞ。時間がないのじゃから」
いなりは男たちを一瞥し、走り出す。僕は倒れた男たちの間を跳んで走る。ピクリとも動かない男たちにぞっとする。ちょっとだけ心配になって、いなりに聞く。
「あれで、死なない?」
「わしだってそこまで鬼ではないわ。気絶したら術が解けるように調整はしておる」
どうやら大丈夫なようだ。離れの縁側から、外に出る。そのまま、まっすぐ山頂への登山口に向かって走り抜ける。が、やはり敵も甘くない。こちらに向かって銃を撃ってくる。いなりがギアを切り替える。僕らの前に出て、お札をポケットから取り出す。相手は4人。お札の数は2つ。
「2連式札術…旋花火じゃ!」
炎が旋風のように轟き、吹き荒れる。男たちはその熱風でやられたようで、すでに気絶していた。ぼくらはそれを確認し走り出し…
大きな矢が、いなりが突入しかけた参道の入り口の地面に突き刺さる。
いなりは咄嗟に後ろにジャンプし、矢が放たれた方向を見る。
オオォ〜〜〜〜〜〜〜〜ン…
遠吠え。犬系の捕食者が獲物に対する宣言でもあり、仲間達に伝える伝令手段である。その内容は同じ。
――これから狩りを始めるぞ――
「この声…狼じゃな」
いなりは牙を覗かせ、呟く。月下に照らされた本家の屋根の上に、射手は立っていた。犬系特有の耳を持ち、尻尾は毛づくろいをあまりしてないのかぼさぼさ。目は水色に輝き、毛の色は銀色。くすんだ色のジーパンは、裾がビンテージ物みたいに解れていた。上には暗闇でも判断できる、薄緑のタンクトップ。いなりより少しばかり年上に見える少女が、屋根の上で僕らを見下ろしていた。
「久方ぶりだね。『天松原 稲荷命』」
狼はいなりに対し、親しげに話しかける。対するいなりは敵意剥き出しで、
「やはり貴様か…『吾妻の銀狼』」
と凄むように言う。狼はそれを流すように、
「私には、『吾妻森疫呼狼(あづまのもりのやころう)』という名前があるのだから覚えて…と言いたいとこだけど私自身はこの名前より、吾妻 ヤコのほうがお気に入りだから、その名前で呼んで欲しいな」
と笑顔交じりで答える。他人から見るとお友達になる前の、自己紹介みたいにしか見えないだろう。だが、そんな風には僕には思えなかった。お互いがお互いを喰いちぎりたいと、殺気立っていたから。
「…かおる。先に行け。こやつはわしでなければ相手にできん。これ、渡しとくぞ」
いなりは懐から一枚のお札を取り出す。僕はそれを受け取る。
「それは、夕子との連絡用の札じゃ。大事に持っておけ。…白梅。かおるを頼むぞ」
白梅は大きく頷き、僕の腕を引っ張る。僕は無理しないように伝えて、参道に突入する。暗く長い、蛇のような山道が、僕らを迎え入れた。
―この先に、真琴がいる。
僕は勢いよく登る。白梅はしっかりとついてくる。僕は山の山頂を仰ぎ見る。まだ間に合うと信じて。
――真琴が死ぬタイムリミットまで、あと5時間34分30秒。

わしとヤコの二人で向き合う。天と地。光と影。それぞれの居場所でお互いのことを見つめる。
「行かせてよかったのか?貴様の仕事は足止めじゃろ?」
素朴な疑問じゃ。あやつも普通に答えるじゃろ。そう期待して、振った質問。
「私は足止めしろとは言われたけど、全員足止めしろとか、捕り逃しちゃいけないとか、言われてないんだよ。それに…」
ここで一拍おかれ、
「私の獲物は最初からいなりの狐だけだもん」
と屈託ない笑顔で言われた。これは宣戦布告だ。わしを殺すという宣言に他ならない。わしはポケットから札を取り出す。そのうちの1枚の術を解く。出てきたのは刀。わしの愛刀,天翔刀。この刀の名前の由来は、刀が長いのに軽いこと。まるで空も飛べるような速さで刀を振ることができるからこの名がついた。
じゃが、この刀は本当に空を飛ぶことができるのだ。呪術礼装の1つであり、この刀の持つ概念は『飛翔』。つまり、持ち主の移動能力の補助を呪術的に行うのだ。もちろん切れ味も抜群じゃ。
「こうやって戦うのも久しぶりだね」
どんなときでも友達のように話すのがこいつのやり方だ。これで幾度となく調子を崩された。わしは刀を握る右手に力を込める。左手には遠距離攻撃や防御の術式が刻まれた札。問題はない。対するヤコは、弓を大きく引く。が、その手には矢がない。否、それは見えないだけに過ぎん。彼女の使う矢は3つ。
1つ目は威力重視の実体型の大型矢。先程わしに向かって撃ったやつじゃ。
2つ目は連射重視の実体型で、小ぶりの矢。それを奴は一度に何十発と射る。
3つ目は速度重視の見えない矢。その正体は……
同時に動き出す。わしは思いっきり地面を踏み、前方に跳躍する。対するヤコは矢を持つ手を離す。見えない矢がわしに襲い掛かる。強烈な衝撃波が体に撃ちつけられる。見えない矢の正体は、見えないほど薄く細い矢。それが放たれると、音速を超える速さで地面に刺さる。これ自身には殺傷能力はあまりない。この矢がもたらす衝撃波が、相手を攻撃するのじゃ。
「ぐうぅ…」
わしは肺から息を全て吐き出しそうになる。それを何とか押さえて、着地。今度は屋根に向かって跳躍する。衝撃波の攻撃は面じゃ。下手に避けるより、向かっていったほうが効率がいいのじゃ。屋根に乗ると、今度は小ぶりの矢の応酬。さながらそれは川の濁流。それを剣の一振りで弾き飛ばす。円を描くように一振り。と同時に左手の札を1枚、相手に投げつける。
「札縛術!火の法」
札から炎が飛び出し、蛇のとぐろの様にヤコの周りに渦を巻く。
「解術!水の法」
渦の中の声と同時に、炎が水に食われる。ヤコはわしは見ながら矢を構えている。威力重視の大型の矢。わしは咄嗟に2枚の札を前に出す。
「防御札術式2連、砂塵の盾!」
砂嵐が目の前に吹く。構わずヤコは矢を放つ。矢はわしの息の根を止めんとやってくるが、砂の壁に阻まれ、失速し地面に転がる。わしはさらに刀の間合いへと踏み込む。ヤコは弓を札に戻し、新たな札を出す。出てきたのは、大陸の槍。それを振り回しながら、わしの刀を受け止める。わしははじき返され、後ろに飛ばされて、着地する。間合いは槍には近すぎ、刀には遠すぎる距離。一度睨み合う。
「またこんな戦いになっちゃったね…フフフ」
心底うれしそうにヤコは笑う。わしはその反応が気に入らなくて刀を構え直し、
「そんなことはどうでもいいわい。貴様は何故ここにいて、何故奴らに加担した?人間嫌いなお前が何故人間の下衆どもと一緒にいる?」
と問い詰める。ヤコは子供のような無邪気な笑顔で、
「別に他意なんてないよ。私がここにいるのはあなたがここにいるって話を聞いたから、もしやと持ったの。それに、私退屈だったの。普通の妖怪や人間じゃ私の相手にならずに死んじゃうから。ずっとずっと淋しかったの。いなりじゃなきゃ、私の相手は務まらないよね?」
心底楽しそうに、こいつは今までいろんな人や妖怪を、殺してきたと言いやがったのじゃ。
「…頭にきた。そこまで雑食だとは……いいじゃろう。おぬしが満足行くまで相手してやる。が、その後待っているのは、おぬしの破滅じゃ」
わしは再度踏み込む。あの外道を成敗するために。

迷った。広大にゃ木々が俺を覆い隠す。ここはあの森とは違うことを嫌でも教えてくれる。あの森と違い俺を優しく包んでくれにゃい。
「教えてくれにゃ…俺は行かにゃきゃにゃらんのにゃ…」
森は迷ったように木々を揺らせる。少しして、小さな風が吹く。そこの中に含まれる微かな匂い。この匂いは…真琴のにおいにゃ。森が騒ぐ。
「ありがとうにゃ」
森に小さにゃ感謝をし、そのまま走る。冷たい空気が、とても心に気持ちいい。急にゃ崖を三段跳びで越える。崖の上は熊笹で埋め尽くされていた。それを高速で駆け抜ける。かゆいようにゃくすぐったいようにゃ感覚。ちょっとそれが邪魔ににゃって、ジャンプする。目の前の大きにゃ木の幹に足をつけ、別の木に向かって跳躍。飛び石の要領で、木の上に上る。そこから木の上をジャンプで走り抜ける。
「聞こえるにゃ」
あの間違いを繰り返さにゃいためにも。俺は行かにゃきゃにゃらない。
「うにゃっ…」
体が火のように熱く感じる。尻尾の毛が逆立つ。酔ったようにゃ感覚になり、視界が揺らぐ。木の上で立ち止まり、深呼吸。ゆっくりと熱を冷ます。熱くにゃってはいけにゃい。これは俺が壊れる前兆。だから、そんなときには深呼吸して、自分を維持する。あの時みたいなことはしない。そのためには、決して自分を見失わにゃい。それがあの時あいつと誓った約束だから。
――真琴が死ぬタイムリミットまで、あと4時間49分01秒。

つかず離れずを維持するのは難しい。私は真琴ちゃんを連れた大人たちから後ろに少し離れた場所に隠れていた。手に持ったお札が光る。通信だ。
「もしもし?私です。夕子です」
――夕子か?
神島君の声だ。私は心なしかうれしく思ってしまう。その気持ちを押し殺して、現状を報告する。
「今、真琴ちゃんを連れた大人たちの後ろにいます。彼らは4人で籠を背負っていますね。護衛は2人。拳銃を所持しています。場所はこの山の6合目。先ほど休憩所を通りました」
私は簡潔に情報を教える。札の向こうで納得する声が聞こえる。私は追跡を続行する。
――夕子。
向こうから声。私はそれに答える。
「はい」
――無理、するなよ
優しい声。私は気合を入れなおす。
「はい。早く追いついてくださいね」
私は自分のできることをすると決めた。これは私の役目。しっかりと果たさなければ。それに、
誰かに優しい言葉をかけられるのは久しぶりだから。
それが私はとてもうれしい。だからこの仕事も気合が入る。私と彼らとのかくれんぼは、まだ終わらない。

こんな風にお山を登るのは初めてだ。白梅は僕の意表をつく場所を登る。崖、小川、滝などお構いなしだ。それでも、しっかり僕でも通れるルートを選んでくれている。時折正規の登山道に戻る。いつもなら40分かけて登る所を、25分で登っている。ぴょんぴょん先行く白梅が、時折遅れている僕を気遣って振り返る。
「…薫…疲れてる…?」
僕はそれに強気で返す。
「全然。まだまだ登れるよ」
…正直いっぱいいっぱいだけどね。
白梅は僕の言葉を信じたのか、また道無き道に突入する。熊笹が生い茂る森の中で白梅を見つけるのは難しいが、耳がぴょこぴょこ揺れているので分かる。僕はそれをずっと見ながら追いかける。急に、耳が立ち止まる。僕は白梅の元に駆け寄る。白梅は巨木の幹を眺めていた。
「どうしたの?白梅」
気になって、聞いてみる。白梅は僕に幹の一部分を見るように指差す。僕は指差されてる部分を見た。幹に足跡がついていた。子供の大きさの靴跡。
「…それ…きっと…たま…」
白梅が考察を述べた。僕はそれを聞いて納得する。確かに、たまの靴の大きさはこれぐらいだ。
「じゃあ、たまはここを通ったってこと?」
白梅が頷く。たまは真琴を助けるために単独行動しているらしい。これなら、合流も早そうだ。
「…急ごう…真琴…危ない…」
白梅に促されて、僕たちはまた走り出した。獣道をひた走る。その雰囲気は、捕まる前のあの時と似ていた。今度こそ失敗しない。僕が、真琴を、助ける。それを胸に刻んで、走り続ける。
――僕が、………ちゃんを助ける。
デジャブがよぎる。それを振り払うように、走ること、白梅についていくことに集中した。ひどくそれが、懐かしく思えたのも、きっと錯覚だろうから。

屋根の上の死闘は続いていた。お互いの武器が衝突し、甲高い音を鳴らす。そのまま共に、後ろに飛ばされる。先に動いたのはいなりだった。着地と同時に札を投げる。
「3連式札術…紅蓮砂弾!」
札が砂のボールになり、それが炎に包まれる。野球の投球ボールほどのスピードで、真っ直ぐヤコを狙う。
「楽しいなぁ。こんなに長く戦えるのは、いつもいなりだけだよ」
ヤコは着地と同時に後ろに跳躍。弓を取り出し、見えない矢を放つ。衝撃波が炎を消し、砂のボールを粉々にする。いなりは刀を大きく、早く振る。刀は衝撃波を生み出した。衝撃波がぶつかり、強烈な風が吹き荒れる。お互いの服が激しく揺れた。
「あれ?かわいいもの穿いているね、いなり」
いなりは顔を赤くしながら、スカートの裾を押さえる。いなりはヤコを睨み、一言「見たのか?」と聞く。
「おむつを穿いたいなりもかわいいなぁ。食べちゃいたいなぁ」
無邪気に殺気剥き出しなヤコ。いなりは耳まで真っ赤に染めて、恥ずかしくて動けない。ヤコはそんないなりを見つめ、ゆっくりと口を開く。
「いなり…覚えてる?富士の山での決闘…あのとき、あなたは私の内臓をめちゃくちゃにしたよね?大変だったんだよ。あの後元に戻すのは。けど私だから、ちゃんと戻せたんだよ。褒めてほめて。だけどね、完璧には戻せなかったの。だから私もね…」
おもむろにバックルを外し、ジーパンを下ろすヤコ。そこには、無地の水色のおむつカバーが顔を覗かしていた。はにかむような笑顔。
「排尿系の神経が壊れちゃって我慢ができないの。恥ずかしいけど、気持ちいいの。こっちが不利のほうが戦いは面白いから。けど、少しつまらなくなるときもあるの。だって結局不公平の勝負でしょ?だから、もし負けたらと思うと怖いの。だから、いなりもおむつ穿いてるって知って、凄くうれしいな。おそろいだよ?これで、対等の勝負」
心底うれしそうに笑うヤコ。再度ズボンを穿きなおし、弓を構え直す。
「じゃあ、続けようか。もっともっと楽しい戦いがしたいな」
いなりは刀を強く握る。ヤコは小ぶりな矢を数十発も放った。いなりは、4枚の札を取り出し、その一枚を投げる。
「第1の札術…風!」
突風が矢を全て叩き落す。ヤコは楽しそうに微笑み、さらに数十発放つ。いなりは右足に思いっきり体重をかける。左手の札を投げ、術を発動させる。
「第2の札術、林!」
2人の間に木の壁が出現する。矢は、全てその壁に突き刺さる。いなりは、壁の向こうで、自身の跳躍力を爆発させる。壁を超えるほど高い位置までジャンプ。3枚目のお札を、ヤコめがけて投擲する。ヤコは瞬時に見えない矢を放ち、迎撃する。
「第3の札術、火!」
爆発。お札は見事な火炎と共に炎上する。やがて衝撃波が、煙をどかす。煙から出てきたのは、刀を突き立てる準備をしたいなりだ。爆発を目くらましにして、相手を殺す準備をしていた。
「すごいよ。やっぱいなりはすごいよ!」
ヤコは弓を札に戻し、槍を出す。が、時すでに遅し。刀はヤコの頭上に迫っていた。ヤコはそれを見ずに、空気の動きと音だけで、間一髪交わす。お互いの視線が交差する。苦々しい表情のいなり。楽しそうに笑うヤコ。対照的な2人は、因縁のように巡り会う。いなりは着地する直前にお札をかざす。すでに槍を構えているヤコ。
「第4の札術、山!」
槍が、いなりに向かって突かれるが、済んでのところで止まる。見えない壁が、そこにはあった。いなりは刀を構え直す。見えない壁が消滅。いなりに向かってくる槍を、彼女は刀で槍を弾く。新たに札を2枚取り出し、術を発動する。
「第5の札術、陰!」
いなりが闇に消える。ヤコは槍を再度構えなおし、辺りを見回す。ヤコは目を閉じ、五感全てを研ぎ澄ました。再度目を開ける。そして、
「6連式札術、風林火山陰雷!第6の札術、雷!」
雷を刀に纏わせたいなりが、すでに刀の間合いに踏み込んでいた。ヤコは咄嗟に札を取り出し、発動させる。
「防御札術式、陽炎の法!」
刀がヤコを切る。それは煙のように消滅し、遠くに槍を矢とし、すでに弓を構えるヤコがいた。いなりは刀を構えなおし、突撃する。飛ぶような動き。スカートの中が見えても気にしない。ただ風のように走り抜ける。槍が放たれる。それを、掬いあげるように刀で真っ二つにした。動きが止まる。ヤコはその隙に間合いを取る。その顔は、笑顔で満ち溢れていた。
「いなりは強いなぁ。あの技は私が自信がある技の1つだったのに。これで槍を1つ失っちゃったな。けど、勝負はこれからだよ!」
パサッという音。いなりの足元から聞こえる。いなりはなぜかスースーすると思い、ゆっくりと下を見る。そこには、
切られたスカートが、瓦の上に落ちている。そして、おむつ丸出しのいなりが、刀片手にかっこいいポーズをとっていた。
真っ赤になるいなり。くすくす笑うヤコ。先に喋ったのはヤコだった。
「切れたのはきっと爆風のときかな。無茶をするいなりも好きだけど、ちょっと考えて攻撃してもいいと思うよ。私は楽しかったから、いいけどね」
いなりは何も喋らない。ヤコは見かねて自分のジーパンを脱ぎ捨てる。
「これでおそろい。御互いこれなら恥ずかしくないし、万事OK!それに…」
ヤコは弓を構える。大降りの矢。尻尾が大きく揺れる。
「そんなことで弱くなっちゃ困るんだから…そんなだったら私、つまらないもん」
いなりは真っ赤な顔はそのままだが、しっかりヤコの動きを見ている。お互いおむつをさらけ出しても、まだ、狐と狼の戦いは終わらない。戦いの第2ラウンドが始まった。

真琴ちゃんたちが本殿の前に着いたのが見える。男たちは籠の中から真琴ちゃんを外に連れ出す。真琴ちゃんは言われるまま籠から出て、立つ。清めの白い死装束。幽玄な雰囲気を醸し出し、黒髪はつやつやと輝いていた。
「ほらぁ!こっち来んか!」
男たちは真琴ちゃんを引っ張りながら、本殿の中に連れて行く。真琴ちゃんはずっと俯いたまま、ぼそぼそと何か呟いているのが見える。男たちは真琴ちゃんを本殿に放り込み、外から鍵を閉める。
「かったりぃ。何でガキのお守りなんだよ!」
男たちは口々に煙草を咥え、本殿周辺で屯っていた。お札が光る。通信だ。
「はい。私です。夕子です」
――僕だ。ハァ…今、7合、目の…ハァ…ところまで…ハァ…来た。
息が荒い、きっとものすごいところを通ってきたんだろう。それを感じさせる声だ。
「こちらは本殿前です。真琴ちゃんはすでに本殿の中へ。男たちは本殿の前で屯ってます」
現状を報告する。神島君は「わかった」と一言入れ、
――僕らも、急ぐ。変化があった…ら、報告…ハァ…してくれ。あと、そこに、たまは…ハァ…いるか?
私は辺りを見回す。それらしき影は無い。私がいない旨を伝えると、神島君はさっきと同じように「わかった」と言ってから、
――多分、そっちに、向かってると…ハァ…思うから、見つけたら、なるべく…ハァ…引き止めて、くれ。
心に『たまを見つけたら捕獲』とメモる。それで通信は終わった。私はもう一度本殿を見る。男たちが本殿から離れる気配は無い。歯痒い気持ちが心を包む。そこへ、一陣の風が吹く。
「きゃっ…」
思わず悲鳴を上げるほどの突風。私は本殿から目を離してしまう。途端、
「なんじゃぁ?このガキァ?」
「がんたれてんじゃねぇぞ!」
「文句あんのか?ああん?」
本殿のほうが騒がしい。ゆっくりと目を開けて、本殿を見る。そこには……

目の前のうるさい奴がにゃにか怒にゃっている。正直言ってそいつの話にゃんかは興味にゃい。ただ相手が牙を向けるのを待つ。そうすれば、こちらの大義名分が通る。やがて痺れを切らしたのか、1人の男が胸座を掴んだ。
「これで…思う存分暴れられるにゃ」
俺は、自らの牙を解放した。まず1人目。そいつの腕から肩を切り裂く。これで動けなくさせる。次に2人目の男を力任せに吹っ飛ばす。さらに襲いかかってくる3人目と4人目は、尻尾を使って迎撃。回し蹴りの要領で叩きつける。さらに来る5人目。そいつは下に滑り込んでから、足の骨を粉砕する。立てなくなった男はそのまま蹲る。最後の1人は逃げ出した。
「腰にゅけが!」
追いついて後ろからとび蹴り。後頭部に命中し、倒させる。ここまでかかった時間は3分に満たない。それから本殿の中に入ろうとして、真琴が勢いよく出てきた。体は小刻みに震え、恐怖で目は開いたままだ。恐怖のあまり、失禁している。俺は本殿の中を見た。
「…汝。わが神の一部となれ…」
三つ足のカラス。巨大な体が本殿の中で蹲る。見間違いがない漆黒。神話に登場するその姿は、すでに神々しい気を纏っている。
「…八咫烏にゃ。案内役の…」
「子供…ではなさそうだな」
八咫烏の中から細身の青年が出てくる。細いフレームの眼鏡を掛けた青年。赤みがかった茶髪。緑色の瞳。尖った顎に、小ぶりの耳。黒いスーツに身を包み、下はそれに合わせた黒いスラックス。内側のワイシャツは白で、ネクタイは黒。葬式のような格好をしたそいつは、その風貌とは裏腹に、すでにこちらが毒されるほどの『神気』を放っていた。
「初めまして、妖怪。俺の名は無幻 空夢。神島の一族の氏神を担当している。妖怪、貴様の名前を聞こうと思わん。用も無い。そこをどけ」
空夢は八咫烏を従え、俺の横を通ろうとする。俺は体を割り込ませ、邪魔をする。
「…貴様は日本語が理解できないのか?そこをどけと言っている」
「……にゃ」
「ん?今、可笑しなことを言ったようだな。面白い。もう一度言ってみろ」
「いやにゃ。お前にゃんかに真琴は渡さにゃいにゃ」
「身の程を弁えるという言葉を知ってるか?知らないのなら…」
――身をもって味わえ。
それが開戦のゴングだった。俺はまず真琴を安全な場所まで避難させ、本殿の前に出る。本殿の上には、八咫烏に乗る空夢がいた。八咫烏が空夢に対し、苦言を呈す。
「あのような雑魚を相手にする必要はないと思われますが」
それに対し空夢は懐かしむような口調で言う。
「前回はそんな態度でいろいろと失敗したからな。早く片付けないと奴を呼ぶかもしれん。それだけは厄介だ」
俺はすでに臨戦態勢だ。体中の血液がざわめきだし、筋肉が稼動の瞬間を待っている。程よい暑さが、最適にゃ初速を生み出す。先に仕掛けたのは、空夢の方だ。八咫烏の翼を用いた攻撃。俺はそれをかわし、木を使って大跳躍。一気に空夢に接近する。空夢は待ち構えていたかのように、するりと矛を取り出す。
「単純な機動だ。所詮は妖怪か」
鉾は真っ直ぐこちらを狙う。俺は尻尾を使って軌道変更。八咫烏の羽をトランポリンのように使い、上に跳躍。尻尾で軌道修正しにゃがら、重力で加速をつけて攻撃する。空夢はそれを容易くかわし、すれ違いざまに矛で切りつける。俺は爪でそれを受け止めた。弾かれるようにして屋根に着地する。
「潰せ。八咫烏」
間髪いれずに八咫烏の強襲。3つの足が俺の喉笛を掻き切らんと狙う。俺は転がるように回避。そのまま勢いでジャンプし、木の枝を使って再びの大跳躍。おむつが重く感じる。いっぱいおしっこを吸ったおむつは、思っていたよりも重くにゃっていた。けど、それを気にする余裕はにゃい。
「貫けぇぇぇぇぇぇっっっ!!!!」
俺はこの瞬間、風とにゃる。狙うは腹。投槍のごとく加速する。その速度は、音と同じほど速い。空夢はその攻撃を間一髪でかわす。が、それで生じた衝撃波はかわすことはできにゃい。
「ほう…この俺に攻撃を当てるとはな」
空夢は俺に向かって矛を投擲。俺は技を解いた状態の硬直で、まともに動けにゃい。尻尾を使って急所ははずす。しかし、左肩に命中した。左肩から溢れ出る血液。バランスを保ちにゃがら着地。うまく、真琴の近くに着地した。真琴は心配そうに俺を見る。その手が、肩の傷に触れる。柔らかい温もりが、肩越しに感じる。俺は心配するにゃという表情を作り、再び瓦の上へ。頭が血液不足でくらくらする。空夢は八咫烏の上から俺を見下ろす。その後何を思ったのか、八咫烏から降りて俺に近づいてくる。俺はチャンスと思い、体を動かそうとするが、まともに動かすことができにゃい。
「お前、元人間だな。俺には見える。貴様が背負っている業が。これは提案だが…」
俺の目の前に立つ空夢。その顔は怪しく歪んでいた。空夢は喋るのを続ける。
「それを解き放ってやろうか?俺の能力は『開放』だ。貴様の魂の根幹にまでしみこんだ業を取り除けば、貴様はより自由になれるぞ。苦しみからも解放される。どうだ?言うことなしだろ?」
俺はその誘いに対し、否定の意思を見せる。空夢はやっぱりという顔をしたあと、さぞうれしそうに俺の目を見つめる。
「潔く申し出を受けていればよかったものを。神に逆らった罰だ。その業の原点を何度も味わう地獄を受けよ」
世界が揺らぐ。そのまま意識を失いそうににゃって…
気がつくと真っ赤な地面の上に立っていた。血に染まった地面。いくつもの死骸が目の前を埋め尽くす。一番上は、俺の妹だったモノ。その次が、俺の両親だったモノ。その下の人物もみな自分にとって馴染み深い奴らだ。これを全て殺したのは自分。
「うっ…うわあああああああああああああああああああああああああああああああああ」
絶叫。森の中に叫び声がこだまする。どうしてこんなことになってしまったのか。それだけが自分を支える唯一のものだった。死骸を見ながら、かつての思い出にふける。

東の国のしがない農村―末島という地名で呼ばれていた―で俺は生まれた。親2人に妹の4人家族。近所の農民達と一緒に、米を作り、国司にそれを納めて、慎ましく暮らしていた。不自由はいっぱいある。けど、こんな生活も悪くないと思っていた。きっとこんな生活を続けて、子供を作り、死ぬんだろうと。自然の営み。変わらない小さな幸せ。時間が余ったら父ちゃんと狩りに出かけ、疲れて帰ってきたところに母ちゃんと妹が今日はどれほど獲ったのかを聞く。夜は狩りで獲ったイノシシの汁。ご馳走を食べながら、いろいろと話す。そんな日々が続いていた。続くと思っていた。
おかしなことになったのは、俺が9歳のときだった。村の米がよく獲れなくなってきた。不作は次の年も続いた。このあたりはよくあることだ。うまく獲れなかったら、国司も収めるのを待ってくれた。が、さらに次の年、早い時期に干ばつが起きた。このままでは3年連続不作になる。村中困り果てていた。さらに国司ももう待ってはくれなかった。今年は今まで通り納めろという命令が来た。村の長老たちは、雨乞いをする結論を得た。ここ数十年は豊作で雨乞いの儀式は行っていなかった。そこで問題になったのは生贄についてだった。雨乞いには常に子供を生贄にしていた。そのときの俺はそんなことは知らなくて、雨乞いで今までどおり幸せな生活が戻ると信じていた。
生贄が妹になると知るまでは。
なぜ。最初の疑問がそれだった。やがてそれは長老たちへの憎悪に置き換わる。俺は長老たちに土下座までして頼み込んだ。俺を代わりにしてくれと。妹ではなく俺が生贄になるから、妹を生贄にするのはやめてくれと。だが、長老たちはそれを一蹴した。ここまでは予想通りだった。むしろ驚いたのは周囲の反応だった。みんな進んで雨乞いの準備をし、早く雨乞いをしろとせかす者まででた。その行為が頭で理解できても、心で理解できない。やがて、俺の心に闇が生まれた。みんなは妹を殺すことで自分を守ろうとしている。民は妹を殺したいんだ。たとえそれが、その親であっても。
村中全ての人間が敵に見えた。雨乞いの前日、俺は家に帰らなかった。森の中で眠る。明日、妹を大人たちからさらってどこかに逃げよう。村のことなんてどうでもいい。雨乞いなんてくそくらえだ。妹のためなら俺は…
「どうするんだ?」
木の上から、声。俺は驚いて身構える。木の上からするりと、黒猫が下りてくる。黒猫は俺に振り返り、金色の瞳をこちらに向ける。その口から人語を話し始める。
「お前、力がほしいんだろ?眼を見ればわかる」
「何だよ…お前…なんで人の言葉を…」
そこで妖しという単語がよぎる。俺は槍を強く握った。チラッと見ると手が震えていた。武者震いということにしておく。
「怯えるでない。我が名は『末島森守黒猫(すえじまのもりのかみのくろねこ)』という。この森の守り神だ。お前らはよくこの森で猪狩りをしているな。見ていたぞ」
「で、その神様が俺に何のようだよ。俺は今妹を助ける方法を考えてんだよ。邪魔しないでくれよ」
「力がほしいんだろ?大人にも勝てる力が。その力、授けてやってもいい」
意外な言葉に力が抜けそうになる。俺は再び気を引き締め、
「そういって俺の魂を喰らう気だろ。騙されるもんか」
「別にお前に甘言を使って騙しても、お前の魂の質では意味など無い。我はお前の『闇』に興味がある」
いつのまにか、黒猫から視線が離せなくなっていた。金色の瞳が俺を射抜く。吸い寄せられるように、黒猫を見続けている。黒猫は嘲笑を浮かべながら、言う。
「すでに我の術の中だ。これからお前に質問をする。それに答えたら、術を解いてやろう」
俺は無意識のうちに頷いていた。声が耳ではなく脳に直接届くようになりかけている。俺は周りの景色が見えなくなっていた。もう、黒猫しか見えていない。
――お前は妹を助けたい。が、力が無いと感じている。どうだ?
――はい。
――お前は妹を殺そうとしている村人を許せない。どうだ?
――はい。
――お前は村人を殺してでも妹を助けたい。どうだ?
――はい。
――これが最後の質問だ。お前は、全てを失ってでも、妹を助けたい。どうだ?
――はい。
やっと周りの景色が見えてくる。気がつくと、槍を落としていた。俺はそれを拾い構え直す。その間黒猫は動かない。俺が構え直すのを確認すると、黒猫は哂いながら俺に話しかける。
「自分の心に嘘はつけまい。別に対価は後払いで構わん。我の力を貸してやろう。誰よりも強き力を。妹を助けることのできる力を。どうだ?悪い話で無いだろう」
俺は黒猫の真意を測りかねていた。黒猫はゆっくりとこちらに近づく。俺は槍を握る力を強くする。それでも近づいてくるのをやめない。それが怖くて、震える手で槍を投擲する。槍は見当違いのところに飛び、地面に突き刺さる。黒猫は俺の足元まで来た。俺は跳躍して、木によじ登る。黒猫はそれについてくる。
「ほしくないのか?力が。お前は妹を助けたいのだろう?それとも他の村人と同じように、妹を殺して安寧と幸せを享受するのか?」
その言葉にカチンと来た。俺はよじ登るのをやめ、黒猫に向き合う。
「いいよ。貸してもらおうじゃねぇか…力って奴を!」
「契約、成立だな。お前の名を聞こう」
「俺の名前は魂だ」
「では契約する。その身、我が魂の洗礼を受けよ。さすれば我が力,その身に宿さん」
体が軽くなった気がした。どこまでも走っていける。そんな気がした。
「魂。お前の望みがかなうことを祈る」
黒猫はそのまま去って行った。俺はその場でしゃがみこむ。いろいろと考えているうちに、結局森で一夜を過ごした。次の日、空はどんよりとしていた。これを見た俺は心が躍ったものだ。もしかしたら雨が降るかもしれない。そうすれば雨乞いも中止になる。そう信じて村に戻る。村はすでに雨乞いの準備を終了していた。中止する雰囲気どころか、やることが決定している、そんな風に見えた。俺はそれが信じられなくて、俺は自分の家に逃げた。が、そこはもぬけの殻だった。もうそこにはかつてあった温もりは無く、閑散としていた。
「なんだぁ?今頃来たんかぁ?」
隣のうちのおばさんに声をかけられる。俺はおばさんに説明を求めた。おばさんは怪訝そうな表情をした後、説明してくれた。
「長老達はこの天気を見て雨乞いが必要かどうかを話し合いしたぁ。で、この天気はきっと雨乞いをする準備が整ったから出てきたんだということになったぁ。それで手筈どおり森の泉で、雨乞いすることになって少し前にもう出て行ったぞぉ」
俺はそれを聞いてあぜ道や獣道を全速力で走る。周りの人から奇異の目で見られていても、気にしない。俺はどこまでも走る。そして、妹の元に辿り着き、
妹を、親を、皆を殺してしまった。

そうしてここに戻る。俺は1人、血まみれの中で蹲る。雨が俺の浴びた返り血を洗い流してくれる。雨。雨乞いなんかしなくても雨は降った。もしかしたらそれを知って帰るところだったのかもしれない。俺はそれを知らずに、皆をむごたらしく殺してしまった。
「殺したのか」
黒猫がやってくる。雨だというのにこの猫は平然とし、俺を見ている。黒猫は無表情に続ける。
「お前は壊すモノだ。人という生き物には作るモノ、使うモノ、壊すモノ、の3つが存在する。作るモノは農民に、使うモノは貴族に、壊すモノは武士になるという。お前は間違いなく壊すモノだ。それも格段に上の」
俺はその言葉を流しで聞いている。黒猫はそんな俺を哀れむように見つめた後、
「お前が得た力への代価はこれに決めた。お前も生きるのが辛かろう。そのまま眠っているがいい。代わりにその体を使わせてもらうぞ。前に言ったが、お前の魂は平凡なものだ。が、お前の体は他の人間より突出している。我がほしいのはその体だ。いただくぞ」
黒猫は蹲る俺に近づき顔を一瞥した後、俺の体に触れる。黒猫の姿が砂のように消えた。心の中に、もう1人居る気配。
――もう眠れ。お前にこの体は必要ない。
ゆっくりと眠くなる。もう抵抗もできない。俺は黒猫を取り込まれ、ひとつになった。正確に言うと、黒猫が新たな俺の主導権者となった。耳が猫のものに変わり、尻尾が生える。毛の色は黒。もう自分の体ではない感覚。これにより、俺は今日から黒猫になり、本当の俺はずっと心の奥で罪悪感によって縛られ、閉じこもっていた。見る夢は、いつも同じ。1人1人殺してゆく夢。大好きだったものを壊してしまう夢。やがて夢と現実が分からなくなり、俺は絶望という名の永遠の牢獄へと閉じ込められていった。

金と銀が、空を舞う。
いなりが左手でお札を2枚投げる。右手には刀。ヤコは両手に槍を持ち、そのうちひとつを投げた。
「2連式札術、螺旋槍火炎」
ドリル状の槍が炎に包まれる。槍と槍がぶつかり合い、はじけ飛ぶ。炎槍は消滅し、ヤコの槍は空に飛び、ヤコはジャンプしてそれをキャッチする。その際、尻尾がゆるりと揺れた。ヤコは空気を蹴るという離れ業をし、いなりに接近する。いなりは刀を構え、右足に力を入れる。耳がぴくっと動いた。1枚のお札を刀で切った。刀が炎を纏う。いなりはヤコを見据え、瓦を蹴る。金色と銀色が再度空を舞う。
空中で甲高い金属のぶつかる音。ヤコは交差した槍で、いなりの攻撃を受け止める。お互いがお互いの顔を見た。いなりは顔をほんのり赤くしながらも、射抜くような視線でヤコを見つめ、ヤコは無邪気な笑顔を浮かべ、楽しんでいる。その顔が驚いたものに変わり、やがてニヤニヤした笑顔を浮かべる。いなりの顔の朱が増した。お互い弾け飛び、瓦の上に着地する。いなりは着地すると同時に両手で下段の構えをする。ヤコは左手の槍を突き出し、右手の槍を投げられる体勢をとる。
「いなり…すこし聞きたいことがあるんだけど…いい?」
ヤコはそのままの体勢で聞く。いなりは首を横に振る。顔がトマトのように赤くなり、その動きも弱々しい。ヤコはわざとらしく鼻をひこひこし、いなりの回答を無視して続ける。
「アンモニアの匂いがするなぁ…それに水が流れる音が聞こえるよ。どうしてかな?ね、いなり」
いなりは攻めるようにヤコを見る。が、その視線の動きも弱々しい。くぐもった水音。人間の耳では近くでしか聞こえないが、狼であるヤコにははっきり聞こえる。
「おもらししてるいなりもかわいい。いなりが出し切るまで待ってるから。存分に出していいよ」
硬直する2人。いなりは刀を構えたまま、動けない。やがて、ヤコの耳に水音が届かなくなる。いなりは耳をぴくぴくさせた。いっぱいおしっこを出したのか、おむつが少しずり落ちている。まだ夜は肌寒い5月。ほんのりだが湯気が漏れていた。
「全部出した?気持ちよかった?私も気持ちよくなりたいな…じゃあ、再開しようか」
ヤコは前へ這うように跳躍する。いなりはおもらしの余韻?に浸る余裕も無く、炎を纏った刀で自分の前の空間を切る。炎が刀の形で飛ぶ。ヤコはそれを見て笑い、いなりの視界から消える。いなりは咄嗟に、後ろに向かって突きを出す。グチュリとおむつから音がした。金属が当たって弾かれる音。ヤコがいなりの後ろの屋根を滑るように着地する。
「おむつが汚れちゃったから動けないの?いなり」
ヤコがそんな心配をした。いなりは顔を赤くしながらもそれを否定する。ヤコは槍の1つを投擲する。単純な機動。それをいなりはかわすのではなく、弾き返した。槍はクルクルと回りながら半月空を舞い、瓦を突き破り屋根に刺さる。その様子を見たヤコは笑いながら言う。
「いなりは嘘つきだね…やっぱり動けないんだ」
ヤコはその後心底残念そうな表情になる。いなりはその表情の意味を図りかねていた。ヤコは大きく遠吠えする。先ほどとは違う遠吠え。これはきっと連絡用の遠吠えだ。
「いなりがこれじゃ…もう戦えないね。だから、おあずけ。ぐすんっ」
ちょっとだけ涙目になっていた。本当に戦闘できないのが残念らしい。やがて、森の奥から1匹の狼が来る。全身が白い毛で覆われた狼。その狼はヤコを見上げ、聞く。
「いいのか。今離脱したら契約違反になるぞ」
ヤコはそれに対し、屋根の上から屋敷内を見渡し、言う。
「依頼主がやられちゃったなら、契約も何も無いと思うよ。敗残兵は退くのが鉄則だもん」
「…そうか。こいつは見逃すのか?」
「いなりにはベストコンディションで戦ってもらわないと。私そうじゃなきゃつまらないもん」
「…了解した。では背に乗っていけ。どうせお前はおもらししたのだろう?」
「…うん。いっぱい出しちゃった」
いなりは驚いた表情でヤコを見る。ヤコはいなりに向けて照れ隠しのような笑顔を浮かべながら、
「いなり。私もね、さっきの着地のときにやっちゃったの。いなりも一緒におもらししてるなんて偶然だねって思ったの。今、私のおむつの中はね、ぐじょぐじょだよ?バイバイ。また、戦おうね。多分少し近い時に」
意味深な発言を残してヤコと白狼は去る。残されたいなりは、眼下の屋敷を見る。いつの間にか抗争は鎮圧されていた。静けさが妙に不気味だ。いなりはそんなことを思いながら、朱乃を探し始める。すぐにこのおむつを交換して、薫たちのところに行かなければ。あと、スカートも新調しないと。いなりは自分の下半身を包んでいるものがおむつだけだということを再認する。途端に恥ずかしくなったのか、いなりはおむつを隠すように歩き始めた。見つからないよう祈りながら、屋敷をさまよう。いなりのおかしな戦いは、まだまだ続行中だった。
――真琴が死ぬタイムリミットまで、あと3時間02分19秒。

いつの間にか小娘が消失していた。妖怪の小僧はそのまま本殿に置いてきた。今頃、自らの闇に喰いちぎられているだろう。俺は八咫烏に乗り、上空から小娘を探す。山の森はうっそうと茂り、そう簡単には見つけられない。が、それは人が探したらの話だ。神である俺にその程度のことは問題にならない。
「…いた。八咫烏。右30°だ」
現にこうして見つけたのだから。どうやら、あの妖怪には仲間がいたらしい。小娘が2人になっていた。獲物の小娘と、逃亡を手引きした小娘だ。前者は俺が魂を取り込み、後者は八つ裂きにされて死亡する。これが結局のところのシナリオだ。言ってみるならば、神に逆らった愚かさを呪うがいい…と言ったところか。
「…前回もこんなシナリオになるはずだったのだが」
前回もそうだった。本殿に出てみてびっくり。生贄はいなくなっててもぬけの殻。後を追ってみると小さなナイトと、生贄、そして生贄と同じ顔をする少女。見ていて健気な親愛だったが、別にそれは生贄をしない理由にならない。結論として、生贄を奪って儀式を行う予定だった。
『奴』の邪魔さえなければ。
想定外だった。『奴』が裏切ったということは聞いていたが、まさかここで会うとは思わなかった。しかも、『奴』は生贄たちを守ったから、ややこしい事になった。俺の仕事が、神島の魂の収集から、『奴』の討滅へと変わった。そこからは死闘だった。『奴』は俺よりもずっと強い。おそらく、『我ら』のなかでは五指に入るだろう。苦戦していた俺は、卑怯な策に出た。神としてのプライドなんか無い。『奴』に負けるのが嫌だった。『奴』は、かつて俺が神であることを言ってもそれを一蹴し、嘲笑したのだから。
正直言うと、俺は『奴』が許せなかったのだ。神として崇められたこともなし。英雄として、神格化されたこともなし。それなのに、『奴』は『我ら』と同じ次元に辿り着き、『我ら』の仲間となったのだ。俺にとってこいつは『邪魔者』だ。こいつは『我ら』の質を貶めるものだ。
俺は生贄と同じ顔をした少女を人質にとった。これでおとなしくなると思いきや、さらに俺への攻撃はひどくなっていった。最終的に、俺はその人質を殺そうとした。が、それにより、とんでもないことを『奴』はした。
『門』を強引にこじ開けたのである。おかげで俺は『あの場所』へと帰らされた。前回は『奴』の登場により、失敗した。『奴』はこの家に何か思いがあるようだ。『奴』が出てくる前に、今度こそ自分の仕事をしなければならない。
「鬼ごっこは終わりだ」
「ひっ…!」
「……っ!」
俺達は逃げる2人の前に先回りして、着地する。2人は足を止め、生贄は怯えているのか瞳に涙を溜め、逃がすのを手引きしたほうは、まだ逃げる気なのかひたすら隙を狙っている。俺は八咫烏に空を飛んで、『奴』がいるかどうか警戒するように伝えてから、2人に話しかける。
「さて、これからお前らには死んでもらう。せめてもの情けだ。遺言ぐらいは聞いてやろう」
明確な殺害宣告。これで生贄のほうは絶望している。が、それを逃がしたほうの小娘が抱きしめ、絶望の淵から救い上げる。逃がしたほうの小娘は、俺を睨みながら宣言する。
「あなたなんかに、真琴ちゃんを、渡しはしません」
その目つきがむかついたので、脅すことにする。
「だまれ人間ごときが。貴様程度の力でどうにかなると思っているのか?」
「…どうにか…させる…」
右側から石の槍が襲い掛かる。俺は後方に飛び、それをかわす。槍の飛んできたほうを見ると、兎の耳を持った小娘と、まもなく青年になるという少年がいた。俺はそいつらを睨むと2人はそれを無視し、生贄の小娘に近寄る。俺は頭にきて、空気の歪みを作る。そして、『開放』。ゆがみが戻る力を、奴らに絞り、攻撃に変化させる。直撃すれば4人分の肉片の出来上がりだ。俺はそれを期待し、
さらに上位の力で、阻まれる。
兎耳の小娘は攻撃が来ると同時に、俺と奴らの間の空間を文字通り『消滅』させた。世界を構成する混沌が垣間見える。空間を『消滅』させるなんてことは、神クラスの存在であってもそうできるものではない。俺でさえできないことをこの兎耳の小娘はやった。俺は小娘を警戒し、距離をとる。やがて消滅した空間は修復されて…
その向こう側には誰もいなくなっていた。
やられた。あの小娘は混沌を渡る術を持っていたらしい。混沌を用い、この場から消え失せたのだ。おちょくるにも程がある。
「追うぞ…八咫烏!」
俺は八咫烏に乗り再び空へ。次に見つけ出したときには有無を言わさずに殺す。心の中の憎しみはこの空のように黒かった。遠くに面白いものを見つける。それを見たとき俺は高笑いが止まらなかった。おもしろくなってきたぞ。憎しみと喜びに満ちながら、俺は高笑いを続けた。

白梅があんな能力を持っていたことには驚いた。真っ暗な闇の中を抜けると、いつの間にか麓の森の中まで来ていた。一度深呼吸をし、状況を整理する。
あのときあいつが放った攻撃を、白梅以外は気づけなかった。白梅は気づくと同時にこの世の言葉ではない、異界の言語で術を紡ぐ。瞬間、奴と僕たちの間に真っ黒な壁が現れた。白梅が倒れそうにふらつき、それを僕が受け止める。白梅は初めて荒い呼吸を繰り返し、苦しそうに喘いでいる。頬を朱に染め、肩が激しく上下していた。僕は白梅を右手で抱え、左手で真琴の手を引いて逃げようとする。すると、苦しそうにする白梅が真っ直ぐ真っ黒な壁を指差す。
「…入って…逃げ道…あそっ…こ…」
苦しそうに訴える白梅。僕はそれに従い、真っ黒な壁の中に入った。感触は、ゼリーのプールで泳いでいるようだった。やわらかいものが纏わりついて、離れない。だが、それは鼻や口、目からは入って来なかった。ひたすらその中を進み、白梅が指すほうに行くと、ここに出られたというわけだ。
「…お兄、ちゃん…」
真琴が僕を見つめる。僕はどう接したらいいか迷っていた。結局、真琴を救ったのは夕子だ。僕ではない。そう迷っているうちに、真琴は僕の体に抱きつく。
「…ありがとう…真琴を…助けに来てくれて…」
「僕が助けたわけじゃ…」
「ううん。夕子さんもたまさんも、皆お兄ちゃんの家族で、仲間なんでしょ?なら、それはお兄ちゃんが助けたのと同じ。だって、お兄ちゃんたちの真琴を助けたいという思いが、こうして叶ったんだもん」
僕は、今ある温もりを再認する。そして、真琴に歩けるかを聞いた。真琴の答えは、幼いときのように元気に「うん」という頷き。僕は白梅を背負い、山を下るように進む。幸い、近くに子供の頃遊んだ川があって、この辺の地理には熟知していた。
「急ごう。あいつが追いつく前に…」
僕らは真っ直ぐ駅に向かっていた。神島の家は今戦闘状態だ。無闇に戻ることはできない。やがて、アスファルトの道路に出る。それからはその道路をひたすら走る。真琴が追いつくスピードで、たまに歩きで休憩を入れながらも。カーブを7つほど曲がったところで、後ろから1台の車が来る。僕らが路肩に寄り、それを避けると車は僕らを通り過ぎたところで止まる。黒いベンツ。窓にはフィルムが張ってあり、中の様子は見えない。後部座席から、2人の男性が出てくる。
「宗家の子供が…仕来りを破りおって!」
「宗家も落ちたものだ。仕来りを守るのが神島の伝統だ。それも理解できぬ低脳とは…」
酒田家の頑固爺と、米山紀伊左衛門。保守派の重鎮2人が、僕らの前に立ちふさがる。運転席と助手席から、黒いスーツを着て、サングラスを掛けた男が2人出てきた。手には拳銃。僕は真琴と夕子に後ろに隠れるように言う。これなら、真っ先に当たるのは僕だ。
「小僧と小僧が連れてきた小娘たちは殺して構わん。宗家の娘だけは生かしておけ」
銃が僕に狙いを定める。そして、
渇いた発砲音が、山にこだました。思わず目を閉じる。が、しばらくしても痛みは来ない。それに何かが当たった感触も無い。ゆっくりと目を開けると、そこには…
真っ黒な夜叉がいた。
上から下まで全身が黒い。上下黒の和服。体には黒い毛がいたるところに生えている。その姿は黒猫そっくりだ。黒い夜叉はわずか数秒で、男2人と酒田家の頑固爺、米山を物言わぬ肉片と流血の湖に変えてしまっていた。銃弾は夜叉に向けられたものだったらしい。が、その力は無残にも打ち砕かれた。なぜなら、放たれた弾丸をこの夜叉は瞬時に8つに分解してしまったからだ。恐ろしいほど正確に8分割された銃弾が落ちている。夜叉が、こちらを向く。
その姿は、見間違いなどではなく、たまに似ていた。
尻尾がゆるゆる揺れる。夜叉はこっちを見て、ボソボソと呟く。やがてゆっくりと近づいてくる。僕は魅入られたように動けない。恐怖で感覚が麻痺している。近づくにつれ、声が聞こえるようになる。その声は、やはりたまだった。魂は同じことを繰り返し言い続ける。
「…大人は殺さなきゃ…見捨てたやつは殺さなきゃ…俺は殺さなきゃ…」
夜叉は爪を立て、僕らを殺そうと襲い掛かる。それを、冴え渡るほどの澄んだ刀筋が止める。夜叉は弾け飛ぶように後ろへ。金色の髪を持つ狐が、刀と共に僕らの前に降り立った。
「かおる大丈夫か?真琴は一緒にいるのか…かおる。助けることができたようじゃな」
うれしそうに僕の顔を覗くいなり。僕は本当にうれしい顔で「ああ」と答えた。そのあと、いなりは表情を変え、きりっとした面持ちで夜叉を見る。その顔が悲しみを佩びたものに変わる。
「…たま。闇に飲まれたのか?」
夜叉は本能的にこの敵は危険と判断し、少し後退する。いなりの尻尾がしゅんとなり、耳がぴくぴく動く。いなりは夜叉に向かって刀の先端を向け、
「たま。たとえお前であろうとも、わしはかおるを守るためにどんなこともするぞ」
夜叉はその言葉には反応せず、これから戦うであろう敵を見据える。僕はいなりの言っていることを理解する。これがたまであること。たまは闇に飲み込まれたこと。お互いの距離は4mほど。共に相手を殺すには十分な間合いだ。いなりは僕にしか聞こえない声で伝える。
「たまを闇から開放する必要があるようじゃ。わしが時間を稼ぐ。白梅の力でたまの中に入って、記憶を探れ。その中に答えがあるはずじゃ。…あとは、頼むぞ」
僕が白梅にこのことを言おうとしたとき、夜叉といなりの呼吸が重なり、死闘が開始する。
お互い初撃はかわされる。先に動いたのは夜叉だった。回し蹴りでいなりを空中に飛ばす。夜叉は地面を思いっきり蹴り上げ、いなりと同じ、いやそれ以上の高さまで跳躍する。いなりはすぐに体勢を立て直すと同時に、刀を用いて更なる跳躍をする。上を取ったのはいなりだった。いなりは刀の峰で夜叉を地面に叩き落した。夜叉は尻尾を使いバランスをとりながら、地面に着地する。アスファルトにひびが入った。いなりはそのまま追い討ちせんと重力を利用し、速いスピードで落ちてくる。夜叉はそれを避けず、自ら落ちてくるいなりに突撃する。いなりは刀を構えなおしたが、間に合わない。夜叉の体当たりによって飛ばされ、森の木の枝に引っかかる。枝はいなりの重さに耐えられるほど太くは無く、すぐに折れていなりは木の幹に強か尻を打ちつけた。
「…薫…」
後ろで荒い息をする白梅が、僕に向かって話しかける。僕はそれに耳を傾けた。
「…これから…術…かける…たま…救って…」
白梅は僕の背中で、小さく呟くように言葉を紡ぐ。その途中、
「…あっ…こんなとき…やっ…出てる…」
という白梅の声と同時に微かな水音。背中に温もりを感じた。白梅はその間中言葉を紡ぎ、そしてそれが終わる頃に言葉も紡ぎ終えた。最後にこの言葉を聞いて、僕はたまの心に入っていった。
「…たま…救って…終わったら…おむつ…換えて…」
僕はその言葉に大きく「わかった」と答える。その後、世界が揺らぐような感覚。クラクラする。世界がくるりと変わって…
そして、見知らぬ森に来ていた。いなりを救ったときの森とは違う、寒さに強い気が多い森だった。僕はその森を歩く。やがて、森が開けて村に出る。静けさが支配する村。その中に、先ほどの夜叉がいた。そこから少し離れたところに、いなりと契約をした陰陽士がいた。その隣には、大人姿のいなりもいる。僕は、家陰に隠れてそれを見る。
「貴様を封印しにきた。『末島の半獣人』」
「そんなことがお前にできるかな…」
「私が前に出ます。そのうちに封印の準備をなさってください」
今と同じように、いなりと夜叉が死闘を開始する。陰陽士はその隙に術を唱える。
「汝が体は牢獄の彼方に。汝が心は海の底の彼方に。汝が魂は無間の彼方に。我が求めるはこの世の静寂。汝が望むは世界の喧騒。汝が罪により、汝自身で裁かれよ。その身は全て破滅なり。封印獄門」
が、術が効かない。驚く陰陽士。夜叉は笑って種明かしする。
「我が体、心、魂は1つにあらず。この身は罪深き男子を取り込んだものなり。その男子、自らの罪により心魂共に眠りに入っておる。故に、この体の主導権は我だ。お前の望む封印。それは我を封するものだろう。しかし、その呪詛は我に届こうとも、男子に届かん。故にこの身は不滅なり」
いなりは高床式の倉庫の屋根に上る。満月を背景に、刀を右に水平に構え、
「凶月の舞…受けるがいい」
弧を描くように何度も空間を切る。空気が刃となって、夜叉に襲い掛かる。夜叉はそれを踊るようにかわし、最後に天高く飛び上がる。数秒滞空した後、いなり目掛けて落下しながらドロップキック。いなりはそれを刀で受け止める。衝撃を受け止めきれなかったのか、倉庫の屋根は崩壊した。
数秒後、右側の壁が打ち破られ、そこから少し離れた所に、いなりの体が地面に転がっている。体に折れた壁が乗っかっていた。夜叉は壊れた壁から飛び出し、起き上がろうとしていたいなりの喉を左手で掴み、地面に押し倒した。止めを刺さんと右手を振り上げる。いなりは右足で夜叉の腹を蹴り、引き剥がす。そこへ、
「木気より生み出されし雷よ…わが敵を打ち砕く槍となれ…葬術…雷槍!」
陰陽士が攻撃用の術を使う。雷が夜叉目掛けて落っこちた。地面までも焦がした雷だが、夜叉には傷ひとつ無い。
「我相手では、貴様らは力不足」
どう見ても陰陽士側が不利だった。じりじりと近づく夜叉。いなりがお札を2枚、夜叉に投げる。お札は夜叉に当たる前に爆発し、煙幕が発生した。最後に見えた夜叉の顔は、驚いたような表情をしていた。
「どうなさいます?」
いなりは陰陽士に近づき、指示を仰ぐ。陰陽士はいなりに自分の後ろに下がるように言う。いなりはそれを拒否した。明らかにそれは自殺行為だ。そう抗議している。が、陰陽士はそれを一蹴した。
「いなり。私なら大丈夫だ。信じてくれ」
この言葉に、いなりは頷くしかなかった。いなりは潔く陰陽士の後ろで刀を構える。陰陽士は懐から扇子を取り出す。風が拭く。煙幕が消えさる。そこには、悠然と立つ夜叉が、足を踏み込む準備をしていた。
「来い。私が相手だ」
「愚かな…」
夜叉は瞬馬よりも速い速度で、陰陽士に突撃する。陰陽師はその攻撃を扇子で受け止めた。人に見える速度ではない。間だけで、その攻撃がどこにくるかを予測し、そして止めたのだ。陰陽士は耳元でたった一言、喋る。
「君の罪は私が許そう。これから起きる罪は私が戒めよう。君が私と共にあるなら、その全ての罪も罰も受け入れよう」
夜叉は驚いたように跳ねる。そして、明らかな憎悪を持って、陰陽士を見つめていた。
「貴様…我に何を…っ」
「中にいる男子に声をかけただけだ。どうした。辛いのか?」
「黙れ!下賤が!」
夜叉は明確な殺意を持って陰陽士に向かう。陰陽士はそれを予測していたのか、すでに術の詠唱を行っていた。
「水より生まれし牢よ。汝が力は誰がためにあるかを我に示せ。円月水牢」
夜叉は両手両足を水の球で拘束される。それから、ゆっくりと、男子を解き放つ。
「君がために私も泣こう。君と共に私も笑おう。君が失ったものを私は知らぬ。しかし、私はそれを埋めるだけのことをしよう。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、愉しみ。全ての感情を共有しよう。この世界は苦しいかもしれない。その苦しみが辛いなら、私に預けるといい。休んだって構わない。君の生きる苦しみも、私は味わいたい」
「やめろヤめろヤメろヤメロやメロやめロ…」
夜叉の姿が蜃気楼のように揺れる。その中から、見覚えのある姿。
夜叉は僕の知るたまの姿に変わっていく。そして、黒い空気の塊がその上に滞空していた。陰陽士はそれにお札を貼る。お札には見たこと無いような言葉がびっしり書かれていた。
『ぐわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…!!!!!!!!!』
黒い空気の塊が、最後の断末魔をあげる。やがてそれはお札に吸収され、この世界から消滅する。陰陽士はたまに掛けていた術を解く。たまは尻餅をつき、蹲る。いなりがゆっくりと陰陽士に近づく。陰陽士はそっと、たまに手を伸ばした。
――立てるかい?
優しい言葉。たまはその手を見る。伸ばされた手は、いつでも掴んでもいいと、そう訴えていた。
――この手を掴めば、私と君は仲間で、家族で、友達だ。
いなりが優しげな表情を浮かべる。たまが、2人の顔を交互に見て、そして、
伸ばされた手を掴んだ。
――辛かったら、いつでも私が君の手を引こう。生きるのに苦しくなったら、いつでも私にぶつければいい。
――俺は…俺は…許されるのか?許してもらえるのか?
――君が望めば私は許す。きっといなりも許す。君の苦しみを今は知らない。君が話したくなければ、無理には聞かない。君が自分で生きる重みに耐えられなかったら、そのとき私たちに話してくれ。少しでも、君の苦しみを分け合って、肩代わりして、君のために同じ苦しみさえも受け入れよう。私たちはこの時から、家族同然。一心同体だ。
たまは、その言葉を聞いて、涙が止まらなくなっていた。陰陽士の服に縋りつき、声が枯れるまで泣いていた。いなりは母親のように、優しくその髪を撫でていた。その光景はとても微笑ましくて…

僕の意識は現実へと戻る。いまだ戦闘中のいなりと夜叉。僕は白梅を背負っていて、後ろに夕子と真琴が居る。自分の現状を確認すると、後ろの白梅が僕に助言をする。
「…たま…闇…闘って、いる…心の、中…薫…助け…行って…」
その後、白梅は僕に降ろしてと言った。僕はそれに従う。ふらつきながらも2本足で地面に立つ。そして、僕に1枚のお札を渡す。
「…これから…薫…たま…心の、中…飛ばす…白梅…できる…それだけ…」
白梅は僕の手を強く握る。
「…お願い…救って…」
純粋な願い。僕はそれを聞き入れ、覚悟を決める。それを確かめるように白梅は僕を見、僕は白梅に頷き返す。その後、白梅は僕にしゃがむように指示し、そして、
頬を両手で支えられた後、僕の唇に、柔らかい白梅の唇が重なった。
不謹慎なほど鼓動が早くなる。息を呑む真琴。夕子も驚いた表情をしていた。白梅は瞳を閉じ、顔は紅潮し、体中をプルプルさせながらも、その唇は離さなかった。いなりは戦いながらその様子を見守る。手に持ったお札が黄緑色に光るのが見える。僕は白梅とキスしたまま、徐々に大きくなるその光に包まれていった。

真っ黒にゃ闇に俺は蹲っている。立ち上がろうとしても、立ち上がれにゃい。黒い、平面にゃ鎖が俺を捕らえ、飲み込もうとしているからだにゃ。それに必死に抵抗する。が、その抵抗空しく、俺の体は真っ黒にゃ闇の中にゆっくりと飲み込まれていった。体の半分は飲み込まれ、それでも、俺は諦めず抵抗を続ける。暗闇はどこまでも遠く、どこまでも近い。光がまったくにゃいから、距離感もつかめにゃい。ただひたすら、前だけ見ている。ふと、暗闇の中に別の色を見つけた。肌色の棒のようなもの。遠くにあるようで、近くにあるそれを、俺はようやく認識したにゃ。
それは、人間の、腕だ。
伸ばされた手は俺を救おうと必死にもがいている。俺も、闇から手を伸ばす。どこまでも遠く感じた距離は、案外近かったようで、俺とその手の差はわずか数十センチだった。だが、その差がとても遠く感じる。届きそうで届かにゃい歯痒さ。俺も必死にもがいて手を伸ばすが、どう足掻いても届かにゃい。体は徐々に闇に吸い込まれ、伸ばされた手との距離も離れていく。
瞬間、妙なものが見えた。
その手を差し出していたのが、自分が殺めた妹だという幻。ただの幻にゃのに、頭の中で鮮明に残ってしまったにゃ。手を伸ばすのを、躊躇させる。きっとあの手を俺は取っちゃいけにゃい。これは今まで払っていなかった罰にゃんだろうにゃ。やがて頭まで闇に飲み込まれ、伸ばしたまま固まった手だけが残る。その手さえも闇に飲まれそうににゃり……
救いの手が、ようやく届く。
手をつかまれる感覚。俺はその感覚に返すように相手の手を握る。
――………な。
闇に飲まれ聞こえにゃいはずの耳に声が届く。その声は、懐かしく、親しみやすいものだ。強い語調だが、そこには優しさが満ち溢れていた。
――…るな。
心の中にまで浸透する声。俺が知っているこのようにゃ声の持ち主は、2人しか居ない。声は、はっきりと俺の体全てを通して、感じることができた。
――諦めるな!
そうだ。諦めるものか。俺は俺であり続けるためにも、こんなものに負けて、自分を失うわけには行かにゃい。
俺は強く握り返し、虚空を蹴る。虚空を蹴ったはずにゃのに、体は闇から飛び出し、手の主が居るところへ。
――こっちだ!たま!
俺はその声に導かれるように、再び自分として、覚醒した。最後にその手の主が薫で、お互い信じあうようにアイコンタクトしたのを、記憶している。

いなりと夜叉の戦いは、夜叉がたまとしての自我を取り戻したことで終わった。たまはすぐにいなりに謝ったが、いなりは別段気にしてないらしく、いつものようにやれやれという表情をして、
「今度から独断専行は慎め。付き合わされるわしらの身になってみろ…たまと違ってわしらは繊細なのじゃ」
と皮肉をこめた言い回しをする。たまはそれにいつものように返した。
「一番暴れているのはいなりにゃ。だから、お門違いだにゃ」
僕はプッと吹いてしまう。それに釣られるように真琴が、白梅が、夕子が笑う。やがて張本人であるいなりとたまも笑った。大笑い。山が笑い声に包まれる。いつもと変わらない。結局、元の鞘に納まったようだ。そして、最後の仕上げが残っていた。
「俺を無視して大笑いとはいい度胸だ」
空夢が八咫烏の上で空気を捻っていた。いなりはすでに防御の術が書かれた札を3枚、左手に持つ。空夢は捻れを『開放』する。いくつもの真空の刃が、僕ら目掛けて飛ぶ。いなりは3枚のお札を同時に投げ、術を発動する。
「3連式攻防一体術式、爆発炎風陣」
お札が爆発する。爆風は真空の刃を消し去り、そのまま炎の風として空夢に襲い掛かる。空夢はそれを矛で起こした風で打ち消す。空夢は嘲笑しながら、僕らを見る。やがて、口を開いた。
「惨めだ。人間と妖怪って本当に惨めだ。そんな無駄な抵抗しても無駄なのに」
それを聞き、無表情でいたたまが僕に近づき、聞く。
「薫。今俺、あいつをぶん殴って地上に落としたいんだけど」
「奇遇だね。僕も同じことを思っていたよ」
意見が一致する僕とたま。先に口を開いたのはたまだった。
「契約してくれ。薫。そうすれば、あの場所に俺も薫も行ける」
僕は強い意志の光を瞳に宿し、大きく頷いた。それを聞いていたいなりが、僕に1枚のお札を渡す。何も書かれていない無地のお札。
「気づかれないようにやるのじゃぞ。わしが時間を稼ぐ。やり方は白梅が知っておるから」
いなりは刀を構え直した。臨戦態勢になる。白梅がゆっくり僕らに近づく。まず、お札を2人で持つように指示し、
「…契約…1番簡単…お互い…本当…名前…言って…1つ誓う…それだけ…」
まず僕が先に言った。
「神島 薫。契約するのならば、この身は相手の盾となる」
次にたまが言う。
「末島 魂。契約するのならば、この身は相手の矛となる」
次ぎ言う言葉は自然と頭の中に浮かんできた。たまも同じなのか、タイミングを合わせて言う。
「「契約…成立!」」
お札に漢字と見たことない文字がたくさん書かれ、それがたまの体に取り込まれる。一連のことが終わると、たまが僕に真剣な表情を向け、
「契約…成立だにゃ。強くイメージするにゃ。跳ぶイメージ…それが、あいつを殴る武器になるにゃ」
僕は言われるがままに、イメージする。夜を飛ぶ梟。闇夜を舞う蝙蝠。違う。これは飛ぶであって、跳ぶではない。再度イメージしてできたものは…
夜空を掛ける流れ星。
あの山登りのときに見たような流れ星をイメージした。チラッと真琴を見る。真琴は戦闘を外から傍観者として見ていた。――あなたが一番の当事者ですよ。
「イメージできたにゃ?」
僕は強く頷いた。たまはそれを確認し、足を踏み込む。
「薫も足を踏み込んで、さっきのイメージどおりにジャンプしてみるにゃ。そうすれば、きっとうまくいくにゃ」
たまに言われると、本当にそんな気がした。僕は強く足を踏み込む。流れ星のイメージ。最後に真琴に一言、あのときの流れ星になるよと伝えた。ほぼ2人同時に飛翔。流れ星のように、真っ直ぐ空を駆け巡る。いなりが援護で空夢の攻撃を無効化している。
「行っけ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!お兄ちゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!!!!!!!」
真琴の声援に背中を押され、俺は大きな握り拳を作り、2人同時に空夢の顔をぶん殴った。空夢が八咫烏から転落し、森に向かって落ちる。そこを、八咫烏が機転を利かした。羽を大きく開き、何回も動かし、旋風を作る。その風に乗り、空夢は森の奥に消えた。地面に着地し、再び上を見たときにはもう八咫烏さえいなかった。体が軽くなった感覚。
「お兄ちゃん…すごぉい…」
真琴が僕をヒーローを見るような眼で見る。僕はちょっと気恥ずかしかった。ごまかすようにみんなに指示する。
「まだあいつを倒してない!急いで探そう!」
「あっちのほうに飛んでいったのが見えたにゃ」
僕らは再び山を登る。今度は皆それぞれ、強い絆と強い意志、強い心を持って。

風で飛ばされた俺は、数本の木の枝に引っかかることでようやく停止した。体中が痛い。何より殴られた顔が痛い。その痛みと共に憎しみがこみ上げてくる。もう許すなんて甘っちょろい考えはなしだ。確実に殺す。手加減はしない。
「待っていろ…下衆共。今に全員、仲良く死体を並べてやる」
奴らの驚く姿を想像すると、笑いが止まらない。俺は歩き出す。死神として奴らの命を奪うために。
――不幸であったのは、彼が本当の死神に会ってしまったことだった――
遠くの上空に八咫烏を見つける。俺はそれに対し合図をし、そして、
同時に死神までも呼び寄せてしまった。
フードをかぶった子供。大きさは生贄の小娘と同じほど。男か女かはわからない。そいつは俺にゆっくりと近づく。俺はすでに肌で感じていた。こいつは俺以上の化け物だと。俺は距離を保つよう後ずさりする。相手はその様子を見て、口をゆがめて笑った。
途端、俺の体は真っ二つに引き裂かれた。
一瞬の出来事。体は切られてもなお、死を認識できずに活動し、頭は痛みさえも感知できない。死神は俺の後ろに立ち、上半身を蹴飛ばす。下半身はそのまま残り直立不動。上半身は地面の上に転がる。ようやく、俺は死神の顔を拝むことができた。
「…き、さま…その…から…だ…」
死神は嘲るように俺を見た後、空に眼を向ける。八咫烏が空でこの様子を見ていたようだ。死神が、告げる。
「『彼ら』に伝えろ。『私』たちはあなたたちの思惑通りには動かない。これは一種の宣戦布告。『私』はあなたたちが行ってきた罪を糾弾し、断罪する。……断言する。あなたたちは神ではない」
八咫烏はそのまま本殿へ飛んでいってしまう。未熟で無様な主を見捨てて。俺はやっと痛みを味わい、そして生命活動を停止した。最後に見たのは、死神の哀れむようなそんな視線だった。

空夢は無残な姿で発見された。最初に見つけたのがいなり。次に僕がその現場に到着した。見るも無残に真っ二つされている。やがてそれが溶けるように消え、最終的には砂になって風に流されていった。近くに八咫烏の姿は見えない。
「神という存在の屍骸は普通残らんぞ。全ての生命活動が停止した後、砂となって消えるんじゃ」
いなりの説明で、先ほどのことを納得する。つまり、切断がきれい過ぎて、生き残っている部分が多かったということだ。
僕は先ほどの様子を、真琴や夕子にはうまくはぐらかしながら、皆に伝える。結局、幕引きは呆気なかった。僕らは道路を横一列で歩きながら、神島本家に向かう。クーデターの首謀者が死亡した今となっては、もうあの家の戦闘は無意味だといえる。
家に着いたのは空が夜明けに染まるときだった。仲には入ると、なんとも形容しがたい状況が広がっていた。
家の所々が抉れている。いくつもの銃痕が柱に残り、刀で切ったような痕まであった。屋根瓦はいくつか割れてるし、風に乗ってスカートとジーパンが降ってくる有様だ。スーツ姿の男が軒並み伸びている。その近くには銀之助さんとその同僚の人たちが座って休憩していた。よく見ると、子供が居るのは気のせいだろうか?父さんと母さんは中庭の縁側で腰を落ち着け、話し合っていた。
僕と真琴は、2人に近づく。2人も僕らに気づき、手を振った。真琴が2人に駆け寄る。母さんは腕を大きく開き、それを迎え入れようとしている。父さんは立ち上がる。僕はゆっくり近づき、父さんも同じように近づき、真琴が母さんの胸に飛び込むのと、僕と父さんがハイタッチするのは同時だった。
「流石だな我が息子よ。お前はエージェントとしての素質があるようだな」
「父さんこそ。全部片付けてくれたんだね」
「ただいま。ママ」
「お帰り。マコちゃん」
こうして、僕ら家族は揃った。いや、まだ揃ってない。
「皆もこっちおいで」
僕は遠めで見ていたいなりたちにも声をかける。いなりがいいのか?という視線を送る。僕はそれをこの言葉で答えた。
「いいんだよ。僕らは仲間で、家族じゃないか」
4人は納得した表情になり、僕らに近づく。ちょっと歪で、不揃いだけど、僕らは、家族だ。いなりと夕子はお互い笑いあいながらねぎらいと勝利の言葉を語り合い、白梅は真琴と一緒に、母さんの膝枕の上ですやすや眠っている。よく見ると母さんも眠ってしまっていた。たまは僕と父さんと一緒に、武勇伝を語り合う。そこにあるのは安らかな顔と、笑顔。
そして、朝がやってくる。やわらかい朝日に見守られ、神島という家にまつわる幸せと不幸せの物語は終わりを告げた。

その後警察がやってきて、父さんの仕事を引き継いだ。連中のほとんどは銃刀法違反で逮捕され、残りも傷害罪等で逮捕された。本来なら父さんと母さんも、死体遺棄の罪で任意同行を求められるところだが、何故かそれは無かった。話によると、前回の送り身で送られた子供の家族が、罪状について否定したらしい。詳しいことはわからないが、父さんたちの罪は公式的に『なかったこと』になったそうだ。しかし、母さんも父さんも世の中では罪に問われなかったとしても、自分たちのした事は罪なのだから、その家族に対して償っていくということを決めていた。
銀之助さんたちはそのまま昼前には帰ってしまった。なんでもまだ他の仕事があって、今から出ないと間に合わないとの事。僕らは何回も感謝の言葉を送り、見送った。和人さんは、その後本家再建のためにしばらく家に残るとのことだった。神島という家の名誉のためにも、これからは悪いうわさを払拭して、いつか高野谷家に追いついてみせると豪語していた。
そして、僕らの帰宅の日。真琴と和人さんが駅まで送ってくれた。いなりたちには先に乗ってもらい、最後に僕がデッキに乗る。真琴はしゅんとした表情で、こちらを見ていた。僕は真琴の頭を撫でる。
「ちゃんと母さんと暮らして、母さんに迷惑にならないようにいい子にするんだよ」
「お兄ちゃん…あのね…真琴…」
すでに眼に涙をため、僕を見る真琴。僕はちょっとだけ心が痛んだ。けど僕は、なるべく笑顔で居るよう心がけ、
「そろそろ電車が出る。もう、お別れだよ。最後に、真琴に言いたい事、言って」
「えっ…待ってよ」
真琴があたふたし始める。見かねた僕はしゃがんで、
真琴の頬に親愛のキスをした。
軽く撫でるようなキス。固まる真琴。顔を真っ赤に染め、眼を僕の顔から離さない。僕は立ち上がり、最後の一言。
「じゃあ、次会うときの宿題だね」
ドアが閉まる。電車は緩やかな加速と共に発車。真琴がついていこうと走り出し、和人さんに止められた。僕は窓際から手を振る。見えてるかわからないけど、精一杯手を振った。それに答えるように、真琴も手を振ってくれた。真琴が見えなくなるまで、ドアの前で手を振っていた。遠くに、神島の山が見える。途端、睡魔に襲われ、懐かしい記憶がよみがえる。
――今度みんなでお山に上ろう!
――うん。私はいいよ。
――早苗が行くならお姉ちゃんの私も行くかな。
――真琴も行く行く!
――なら、保護者として僕が行きましょうかね。
ノイズが晴れた。顔を思い出す。けど、名前が正確に思い出せない。和人さんが居て、僕が居て、真琴が居て…僕はそのまま終点まで眠ってしまった。今までのような悪夢ではなく、安らかな、懐かしい夢に守られながら。

自宅に帰ると、すぐさまお届け物が届いた。守人のヨーロッパ土産だ。ベルギーチョコ。パルミザンチーズ。フランクフルト。アンティーク時計。ヴェネチアンがラス。オリーブの種。などなど。いろいろな国の思い出が詰まった素敵なプレゼントだった。手紙が中に入っていた。それを読む。

――親愛なる我が友人 神島 薫様
 ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしょうか。僕は今、ドーバー海峡を列車で渡っている最中に、これを書いています。ヨーロッパという世界はとても風光明媚で、僕の心をくすぐります。言語はいろいろあって大変ですが、それでもジェスチャー込みで何とかなってます。帰ったら、写真と共に、いろいろと語ることもあるでしょう。楽しみにしてください。僕はこれからイギリスのストーンヘンジに向かいます。これが最後のミッションです。これが終わったら、きっとそっちに帰れるから待っていてください。
君の頼りになる友人 高野谷 守人より

どうやらあと少しで守人が帰ってくるようだ。ぼくはそれを期待しながら、荷物の後片付けをする。そして、それがある程度片付いたとき、まさかの展開が僕を待ち受けていた。次の日、洗濯物を干している最中、外に大きなコンテナ付のトラックが停車していた。そういえば、新しくもう一個、2段ベッドを買っていたのを思い出す。予想通り、トラックは後ろのコンテナから、2段ベッドを取り出す。僕はそれを確認すると、洗濯物干しを続ける。汚れたおむつが多いため、ハンガーにいくつもの布おむつが並ぶ。外から見ると滑稽でしかない状況だ。布の壁とはきっとこういうものだろう。そんなくだらないことを考えながら、洗濯物を干し続ける。
――そのときもっと長くトラックを見れば、あんな反応しなくてすんだのだろう。
やがてインターホンが鳴り、僕は洗濯物を干すのをやめ、玄関に向かう。いなりたち4人は、ソファの上で並んで眠っていた。つけっぱなしだったゲームを消す。こうして並んでいるのが、とても微笑ましく、そして嬉しい。僕は自然と笑顔になった。その表情のまま、玄関へ。
「はい。神島…」
「じゃんじゃじゃ〜〜〜んっ!!!!」
笑顔のまま固まる僕。目の前に居る見覚えのある少女は、僕以上の笑顔で、僕に飛びついた。僕は倒れそうになるのを堪える。
「ま…真琴!?」
そう。真琴が大きな荷物を背負い、今こうして僕に抱きついたのだ。正直、訳がわからない。
「は〜いお2人さん邪魔だよー」
運送屋のおじちゃんに言われ、退いた。予想通りの2段ベッド。そして僕に抱きつく予想外。とにかく話を聞いてみることにした。
「どうして真琴がここに居るのかな?」
「ママとパパが2人してアメリカに行っちゃって…で、ママはお兄ちゃんのところに行きなさいって言って…で、いろんな人に教えてもらいながらここまで来たんだよ?」
「どうして母さんまでアメリカに行くのさ」
「うーん?たんしんふにんとかが心配って言ってたよ。パパもママを1人にできないって言ってた」
あのバカップルめっ……。心の中で両親を罵倒する。すると、真琴が急にもじもじし始めて、
「あのね…お兄ちゃん…笑わないで…聞いてくれるかな」
妙に改まった態度だから、不信感が増す。真琴は抱きつくのをやめて、床に着地する。そして、ゆっくりとスカートをたくし上げ、
「真琴…こんな体に…なっちゃった…」
白いパンツではなくピンクの紙おむつが、顔を覗かせていた。股の部分がほんのり色が変わっている。驚愕の事実。我が妹は、おむつが必要な体になっていた。ともかく、スカートをたくし上げるのをやめさせ、業者さんに判子を押し、帰ってもらった後、母さんから手紙を貰ってないか聞いた。こういうときは必ず手紙か何かを残しているはずだ。真琴は思い出したように、背中に背負っているリュックから便箋を取り出す。僕はそれを開いて読んだ。

――薫ちゃんへ。
マコちゃんをそっちにやりました。よろしくお願いします。そうそう、マコちゃんは薫ちゃんがいろんな女の子や男の子と仲がいいのを気にして、赤ちゃん返りしてしまいました。お世話のほど、よろしくお願いします。あと、なんか妙なことになっているから、いなりちゃんに詳しいこと聞いといて。おむつ換えすれば分かります。転校手続きはしといたから。じゃねー。
                                  母さんより

妙なこと?とにかくおむつ換えすればいいらしい。僕はいなりだけをこっそり起こして、真琴のおむつ換えをする。入ったのは皆がいる子ども部屋のほうだった。
「真琴。スカート上げて」
真琴は言われる通りにスカートを上げる。おむつが顔を覗かした。僕はおむつに手を入れ、中の様子を確かめる。
「んんっ…」
妙なところに触れたのか、そんな声を出した。
「いっぱいでてるね」
真琴が恥ずかしそうに俯き、顔を赤くする。おむつの中はおしっこでぐちゃぐちゃだった。僕は手を引き抜き、それをウェットティッシュで拭くと、おむつの端をびりびりっと破く。両方破いたら、真琴の股からはずし、ぐるぐる丸め、専用のゴミ箱へ。それから、恥ずかしがる真琴には悪いけど、お股をウェットティッシュで拭く。特に大事なところは入念に吹いた。
「懐かしいな…よくこうやって真琴のおむつ換えしたな」
「そんなこと言わないでよ〜恥ずかしいよぉ=」
ぴょこ。真琴のお尻の近くから、妙なものが垂れ下がっていた。真っ黒でもふもふ。この肌触りはまるで…
「尻尾じゃな。ほれ、耳まで生えておる」
真琴の頭を見ると、くたーとした黒い猫耳が髪の毛の隙間から生えていた。
「ま…真琴!?それ…」
「うん…凄く恥ずかしいと、こうなっちゃうの」
いなりは顎に手を当て、考え込む仕草をしたあと、真琴に質問する。
「真琴。お前は妖怪の血を触ったか?」
「えーっと…たまちゃんの血は触ったかも」
「…それか」
いなりは結論を出し、僕に説明する。
「半妖化じゃ。人は穢れに触れるとそれに変化する性質を持つ。おそらく、たまの血に触れたことで変化が生じ、半妖化したのじゃろう。こうなってはそう簡単には治せんぞ。まあ、恥ずかしくなるとき限定なら、そう困ることはないだろうが…」
いなりは思案した後、ポンと手をたたき、お札を取り出し、真琴に渡す。
「それは認識阻害の術が書かれた札じゃ。よく知るものでない限り、おぬしの見せたくないものは見せなくさせるの力を持つ。これで大丈夫じゃろ」
真琴はそれを受け取り「ありがとう」と礼をする。その隙に僕は真琴のおむつを穿かせた。気持ちよくなったのか、ニコニコした表情で僕の正面に立ち、
「宿題。まだ言えないけど、がんばるよ。よろしくね。お兄ちゃん」
と手を差し出す。僕はその手を握り返した。もう決して、その温もりを失わないように。
新たに始まったどたばたな日々。家族であり、仲間である僕らは、いつも一心同体。喧嘩もするし、からかいあったりするけど、すぐに仲直りする。僕らの日常はこうして続き、そして笑顔が満ち溢れるものになるだろう。たとえ過去が暗く淀んだものだとしても、未来がそうなるとは限らない。なぜなら、未来を決めるのは僕たち自身なのだから。

――追伸。音子さんが真琴を見て感激してました。音子さんはどうやら、猫耳派のようです。
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