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トップ  >  黒人形作  >  cross drive  >  cross drive 第四話 Lunatic gardenand Full moon cradle  第3章 A reunion and separation
異変はお嬢様が帰ってきて数日後に起きた。
僕/私は時々吐き気を催すようになった。料理の味がわからなくなり、時折熱が高温になった。
お嬢様が心配して(既に事務口調であったが)僕/私を医者に見せた。
僕/私の胎内に、何かいた。医者は僕/私のことを知っていたようで、真実を話してくれた。お嬢様は知らない、僕/私の真実。
僕/私は、お館様に愛玩動物として見初められたわけではなかった。僕/私は、最終兵器としてこの世に生み出された生命体と言うことだった。正確に言うと、僕/私は最終兵器のための母体として生み出されたのだ。考えてみればそうだ。僕/私は母親がいないことに疑問を持たなかったし、特別待遇だったのも頷ける。きっとこの可憐な姿は製造者の趣味だろう。もしくは、愛玩だという理由付けのためかもしれない。
とにかく、僕/私は真っ当な生物ではなかったのだ。そして、運命さえも決められている。僕がこの真実を知らされてから、お館様は行動を速めた。彼らが僕/私を生み出した最大の理由にして、常夜の世界の人々が思い描いた長年の夢。月の向こう側を壊すこと。自らを追い出した人々への復讐。
「いやです。お父様。私は反対します」
お嬢様はこの計画を知って反対の立場をとった。それだけではなく、僕/私に中絶するように促してきた。お館様はお嬢様を幽閉した。そして、そのとき庇った僕/私を再調整するように、僕/私を作った技術者に命令した。僕/私は専用のカプセルを用意され、その中に入れられた。
「いやだ。離して。お嬢様の…籠命の所に行かせて」
僕/私の叫びは無視され、黙らせようと睡眠ガスを注入されたとき…
頭の中でアレが囁いた。
――壊せ。邪魔なものは全て壊せ。完膚なきまでに粉砕しろ!
それから、しばらくの間は僕/私の記憶は飛んだ。

そして、白いワンピースが赤く染まったとき、僕/私は1度目の覚醒を果たした。

僕は起き上がるとすぐに自分の体を確認した。…問題ない。どこも欠けてはいない。
たまが眠っているので、起こすのも悪いからリビングに向かう。
「……!」
「白梅…っ!」
リビングに白梅がいた。ソファに深く腰掛けていた彼は、僕を認識するなりとても悲しそうな表情を浮かべ、立ち上がりこちらを見つめる。赤い大きな瞳が、さらに大きく輝く。
「…薫…おはよう…今日…5月21日…」
聞いてないのに今日の日付を言う白梅。その頬を涙が伝う。僕は覚えている。昨日も5月21日だったことを。
「…もう…気づいてる…白梅…まとも…違う…」
白梅は自虐的に笑う。涙がさらに溢れ出している。僕は言葉を紡ぐことができない。彼の存在がそれで掻き消えてしまいそうにか弱いから。白梅はそれを知っていて、話し続ける。
「…最初から…白梅…ダメな子…いない…ほう…正しい…」
「そんなことないっ!」
僕はついに言葉を発してしまった。もう居た堪れない気持ちになったから。これ以上こんな白梅は見たくなかった。白梅は近づこうとする僕を目で制し、最後にこう告げて、この部屋、いや僕らの前から消えた。
「…ゴメンナサイ…不幸…白梅…生まれたこと…出会ったこと…だから…白梅…消えるね…バイバイ…」

学校に行っても上の空だった。朝の出来事が脳に焼き付いて離れない。あの後、いなりとたまは白梅がいなくなったことを察し、僕に話しかけてきた。2人ともこうなることは予想していたらしい。2人は僕に向かって怒りもせず、嘲りもせず、ただ助言だけをした。
「わしらは記憶の継承がない。つまりこのループ、白梅の世界に選ばれているのはかおる。お主じゃ。じゃから、わしらは手伝いはすれ、解決はできん。この件を解決できるのは、選ばれたおぬしの仕事じゃ」
「薫の中の過去の俺はきっと間違ったのにゃ。薫と一緒にゃ。にゃにかが足りにゃいにゃ。にゃら、それを見つける手伝いは、任せるにゃ!」
それを告げると、2人は白梅を探しに行った。対して、夕子と音子さんは僕の家に残り、探しには行かなかった。夕子は「訳があるならそーっとしておいたほうがいいですね」と言い、音子さんは「帰ってきたときに誰かいないと困ってしまいますから」と笑顔で言っていた。きっと、僕を気遣っての笑顔だと思うと、心苦しかった。
真琴が一番心配していたが、僕は無理矢理にでも学校に行かせた。きっと、今にでも飛び出して白梅を探しに行ってしまうだろうから。ミイラ取りがミイラになる可能性もあったから、僕は真琴を止めたのだ。
「浮かない顔をしてるね?この時期に悩み事かい?勉強関連…って訳でもなさそうだね」
守人が僕の席まで来て、話しかけてくる。こういうとき、話し相手が、特に親身に相談に乗ってくれる人がいるのはありがたい。僕は、今までのこと、白梅のことなどを全て守人に話す。守人は茶化すことなく真剣に聞いていた。全て言い終わると同時にチャイムが鳴る。
「続きは次の休み時間で…」
「…ああ。わかった」
次の自習の時間は考えることがいっぱいあった。まず白梅の体のこと。あれが何かはわからないけど、白梅の中で暴れまわっていたのは間違いないだろう。だからお腹を押さえながらあんなに苦しそうにしていたのか。
次にフランス人形のような服を着た、白梅と同じ顔をした少女。彼女は一体何者なのだろうか?白梅のことを知っていた以上、知り合いであることは間違いなさそうだ。彼女も白梅と同じ者を産んでいたから、白梅のことも何か知っているかもしれない。
そして、いなりとたまが話してくれた籠命と言う少女の話。これが今回の事件のキーカードの1つなのだろう。そうでなければあんな話なんてするはずもない。なら、あの話の意図は何なのだろう。籠命とは何者なのだろうか。月の民というのが、今回の事件の裏にいる人々なのだろうか?
授業終了を告げるチャイムが鳴り、監督の先生が退室した後、すぐに守人が僕のところまで来てくれる。ちょうど前の席の人が退席していたから、守人はそこに座った。僕の眼を見つめると、ゆっくりと彼は自分の考えを話し始めた。
「これは僕の憶測だからあまり信用しないで欲しい。いなりの話によるといなりたちは記憶の継承が無く、白梅を除いて唯一継承しているのは君なんだろ?そして、この世界…というか君を取り巻く世界は5月21日を越えることができないんだ。きっとこの世界の未来は5月22日の深夜0時で終わるようになっているんだよ。
いや、そこまで伸びたというのが正しいかもしれない。白梅はその気になればもっと早い段階で覚醒?ができたかもしれないのを、限界である今日まで引き伸ばしたんだろう。そして、限界を迎えたからこそ、彼は過去に戻るという方法でしかこの結末を避けることができないんだ。そして、彼は君に期待しているんだよ」
僕は静かにその続きを待つ。守人の目は何時に無く真剣だった。
「彼は君ならばこの問題を解決できると信じてるんだよ。今まで君は身の回りの事件を解決してきた。もちろん君1人の力じゃない。皆で力を合わせて何とか解決してきたというのが本音だろう。だが、それでも君が事件解決に大きく貢献していたのは事実だろ?現に今の君にはいなりとたまという従者までいるくらいだ。
だからこそ、その可能性に賭けたいんだ。君なら何とかしてくれる。だから君にだけ記憶継承をしたんだよ。自分を知ってもらうために。結末を知ってもらうために。鍵を知ってもらうために。そして、この世界は完全なループじゃない。完全なループなら君は何もできずに終わる。だから、敢えて不確定要素を多くさせた不完全なリング、ねじれがあるメビウスリングのようになっているんだ。
だがそれでは再現はできない分、時間航行にも負担が掛かる。敢えて不確定要素が残るということは、同じ分量の力では元に戻せないんだ。なぜなら結末や出来事は微妙に異なり、それらも全て戻さないといけない。だから、力も多く使う」
饒舌だった。まるで全て知ってるかのごとく、守人は話し続けた。僕はつい疑いを持ってしまう。実は守人も何かを知っているのではないかと。だから、彼が息を入れている今、僕は質問をした。
「どうしてそこまでわかるんだよ?」
守人はにこりと笑いながら、小さな声でこう呟く。
「どうして知っているか…だって?当たり前だよ…なぜなら『私』は高野谷 守人ではないから」
その時、世界は、制止した。
周囲の喧騒が病む。まるで彫像のように、皆動くのを読めていた。人だけではない。モノも、時間も。それは斜め前に浮いている消しゴムが証明していた。落下宙なのに、その消しゴムはそこに台があるかのごとく制止していた。
「驚いた?私にもこれぐらいはできるのよ?」
そして、守人は消え、フランス人形が目の前にいた。白梅と同じ顔をした少女。彼女はピエロのように笑顔を貼り付けていたが、それを解くと左手で僕の胸倉をつかみ、期待を裏切られたという表情で睨む。僕は何もいうことができず、ただその視線を受け止めるだけだった。やがて左手の力を解くと今度はニタリとした笑みで僕を見つめる。
「ちゃんとした挨拶はまだだったわね。私の名前は黒百合。まあ、便宜上の名前で本当の名前は白梅。あなたがよく知っている白梅が落としてきてしまった存在」
黒百合は髪をかきあげると、僕に「何か聞きたいことあるわよね?」と挑発的に言った。僕は戸惑ったがここでできる限り情報を仕入れたほうがいいと判断し、意を決して聞く。
「君は、白梅の何だ?」
僕の質問を聞いた黒百合は1度ため息をついたあと、
「言ったはずよ。私は白梅が落としてきてしまった存在だって。彼がこの世界に来たとき捨てた存在。それが自我をもってこうして闊歩しているの。彼と同じ存在だから、彼と同じ能力や因子を持つの。まあ、この世界の人間には因子なんてものは理解できないでしょうけど」
とよくわからないことを言った。それから黒百合は「それよりも聞くことがあるでしょう?」と苛立ちながら言う。僕は数秒思案して、それから質問した。
「白梅から出てきた…あの変な化け物は何?」
黒百合は一度自分のお腹を触った後、答える。
「言葉通り『化け物』よ。この世界の全ての生物とは違う別の存在。異界の化身にして、破界の使者。内より出でて、外を壊すもの。その正体は顕現した『破壊』そのもの。全ての生き物…いや、全ての存在に等しく終焉をもたらす存在」
黒百合は忌々しげに答えた。それを見た僕はその先質問しようとしていたから、口が開いたままになる。黒百合はすぐに気づき、「じゃあ、最後に1個だけ質問に答えてあげる」と妖艶に言った。僕その口調にどきりとしてしまう。ただでさえ白梅そっくりな容姿だから、つい白梅が言っているものだと錯覚してしまうのだ。
「じゃ、じゃあ…なぜそんな正真正銘の『化け物』が…その、君や白梅の中にいるの?」
最後のほうはちょっと意識してしまい、声が小さくなってしまった。黒百合はそれを見逃さず指摘する。
「今あなたは、本当はこう聞きたかったのでしょう?…なぜ男なのに白梅はあんなものを孕んでいるのかって…」
僕はつい顔を赤くしてしまう。黒百合はそんな僕のことを鼻で笑った後、
「事の発端は今からずっと前、遠い昔の神代の時。人間が神様と一緒にいた時代である一族が追放された。彼らは他の人間と違い、空を飛べたり世界を渡る力があった。神様が持つような力を彼らは持っていたから、神様からも人々からも愛されずにこの世界から追い出された。
そうして彼らがたどり着いたのが常夜の世界。先住の民は兎人とよばれる獣人。その地はこの兎たちのために作られた秘境。それを彼らは先住の民を隷属させ、自らの王国を作った。彼らはその太陽の無い世界で自らを追い出した人々のことを恨み続けた。やがてその恨みが増長して、最終的に彼らは自らでも手に負えないものを生み出した
それが、白梅であり私。彼らは『化け物』を制御するために彼らが操れる兎にそれを宿した。が、彼らは見抜くことができなかった。『化け物』自身に意思があり、それが白梅に影響を与える可能性があるなんて。だから、彼らのほとんどは滅亡した。自らが生み出した最終兵器に飲み込まれたのよ」
彼女はそこまで話し終わると、守人の姿になった。それから続けて言う。
「高野谷 守人はすでにこの世界を超えてしまっているわ。彼女自身には自覚が無くても、私たち以上の化け物ね。だから、不具合が生じないように『高野谷 守人』という存在の殻を被って私がここにいるの。もちろん殻を被っている間は、私は『高野谷 守人』である事は間違いないのだけれどもね」
言い終わると同時に、世界はまた動き出した。消しゴムが床を転がる。それを守人は拾うと、いつものようにさわやかな笑顔で渡す。その動作全てが、いつもの守人と相違なかった。
「じゃあ、次の昼休みで」
守人の仕草で、守人の声で、守人は自分の席に戻っていった。僕は彼女、次の自習時間で黒百合の言葉を整理する。
白梅の中には『化け物』がいて、それが今日5月21日に覚醒してしまい、それによって世界が終わる。つまりそういうことなのだろう。それを僕が止めなければいけない。白梅は僕に期待しているのだろうから。僕はそのために生かされているのだから。

公園の草原に寝転ぶ。周りは空間の壁で仕切ってあるので誰も近寄れないだろう。僕はその中で今までの日々を思い出す。夢のようだった。幻かもしれない。自分がいられる場所ではない、陽の当たる場所。ずっと僕はそこにいた。本当は、僕の居場所は、永遠の夜なのに。
「こんなところで引きこもっていたの?白梅」
「…黒百合…!」
やっぱり黒百合だけは、ここに来ると思った。相手も自分である以上、お互いのいるところなどお見通しということだろう。僕が体を起こすと、黒百合は僕の横に座る。
「会ってきたわ。あなたが期待する彼に」
彼女の言葉に言葉を失う。彼女は言った。「彼に会った」と。彼とはきっと薫のことだろう。黒百合が薫に会ったということは、きっと薫は全てを知ったのだろう。もしかしたらそれ以上のこともしたのかもしれない。気になって、僕は質問することにした。
「…何…したの?…」
「珍しいわね、あなたが積極的に聞いてくるなんて」
僕はそれを指摘されてとても恥ずかしくなった。顔が赤くなっていくのを自覚する。それを見て黒百合は穏やかに微笑みながら、
「特にあなたが心配するようなことはしていないわ。まあ、助言はしたわね。あのままループさせ続けたらあなたのほうが先にアレに負けてしまうもの」
と言った。僕もそれは理解していた。僕の中にいるアレはすごく強くなっていっているということを。そして、このままでは意識さえも乗っ取られる可能性があるということも。黒百合は前に回りこみ、僕の顔を覗き込む。
「本当に、彼なら救えると思うの?」
「…わからない…けど…」
「けど?」
「…信じて…みたいの…」
「何もできないかもしれないのに?」
「…それでも…」
「なら、私はまだ動かないでいてあげる」
「……ありがと…」
「じゃあ、ご褒美貰うね」
黒百合の唇が、僕の頬に触れた。それだけで、心臓はバクバクと鳴り、顔は真っ赤に染まってしまう。黒百合は物足りなさそうに僕を見る。彼女は唇を離すと珍しくストレートに本音を口にした。
「本当は熱い、フレンチがいいのだけれど、それをしたら本当に世界が終わってしまうから…だから今回は頬だけ」
僕はもっと恥ずかしくなった。それはさっきのキスもそうだけど、前回の今日の薫とのキスを思い出したから。僕はまた寝転がることにした。頭を冷やすには寝るのに限る。僕が持つ数少ない格言だ。
「おやすみなさい。白梅。では、今夜の終わりの時に」
黒百合は僕の眠りを見届けて去る。彼女も救いたい対象の1人。けど、それはできない。破壊しかできない僕と同じ存在だから。だからせめて、夢の中だけでも彼女を救った後の世界を夢想しよう。それがたとえ夢幻の彼方にあるとしても。
次に目覚めるのは、月が昇るそのときに。

家に帰ると、ソファでいなりとたまが音子さんの膝枕で眠っていた。よほど疲れたのか、僕が帰ってきたのを気づかないほど熟睡していた。
「お帰りなさいませ、薫様」
静かな、優しい声で音子さんが言う。いなりやたまに気を遣ってのことだろう。僕も小さく「ただいま」と言って、部屋に戻る。僕の部屋の前で夕子と真琴が待っていた。夕子は「お帰りなさい。神島君」と言ってから一礼し、真琴は「お兄ちゃん!白梅ちゃんは!?」と僕に詰め寄る。僕は言うべきか迷った。白梅の真実を。黒百合の存在を。
「……まだ、見つかってないんだ…ごめんね…」
僕は、結局嘘を付くことにした。それが、今の僕が彼女達にできる精一杯のことだと思うから。勝負は夜。月が昇るそのときに。

夜になった。満月が昇り、人々が寝静まったこの時を、僕はずっと待っていた。空間の壁を解き、外に出る。そよ風が体に当たり、肌寒い。耳が風に乗り、揺れる。クローバーは波打つように揺れ、喧騒に包まれた公園は静まり返っている。
「…ぐぅ……んうっ…」
ナカでアレが暴れる。僕は耐えられない感覚に襲われる。やっぱり力の使いすぎのせいか、アレの存在感が増しているようだ。お腹を押さえて蹲る。こうしていれば、少しの間持つのを知っているから。
「…ひゅんっ……んあっ……」
ただ苦しいだけならいつもどおり耐えられる。だけど、それだけではない。アレは理解している。生き物をどうすれば動かせるかを。僕を襲うのはもはや本能と言う名の衝動だ。食欲。色欲。強欲。嫉妬。憤怒。怠惰。傲慢。7つの大罪全てが襲い掛かってくる感覚。自分が消えてしまいそうになる。
「……黒百合……薫……白梅……ダメ……かも……」
言葉は風に乗って消える。心の崩壊を満月が駆り立てる。真っ当な精神が狂気に染まる。愛情と憎悪が混じる。このまま僕は……
――サア審判ノ時ガ来タ。狂気ノ園デ君ヲ待ツ――

夜になった。満月が昇り、人々が寝静まったこの時を、僕はずっと待っていた。皆が眠っているのを確認して、こっそりと外に出る。そして、玄関を出るとき、
「どこに行く気じゃ?」
「むむっ!薫は1人でやるきにゃ!」
見事にいなりとたまに捕まってしまった。2人とも、もう解っているという顔をしている。僕も、それで全てを理解した。もう何も言う必要はない。戦士は戦場へ。市民は平穏へ。こうして、僕らは平穏に別れを告げ戦場へ向かう。あの月の王子が君臨する丘へ。何が最善かはわからないけど、できる限りのことをする。だから僕は…
――さあ宿命の時が来た。満月の揺り籠まで、君を迎えに行く――

風が、丘を滑り落ちるように吹く。いなりは尻尾を大きく揺らしながら丘の上を見上げ、たまは耳をぴくぴくさせながら手に力を込めていた。そして僕は、すでに金縛りにあったみたいに体が動かなくなっていた。
月は紅に染まり、王子は天から堕ち阿修羅と化す。
白梅がいるのは理解できる。が、その雰囲気は通常とはかけ離れていた。その目は赤紫に輝きながらも光を失い、普段しないような邪悪な笑みを浮かべ、その体から殺意を滲ませていた。
「…待ってた…ずっと…ずっと…待ってたよ…薫…」
その口調は恋焦がれた人に出会えたように軽やかで、それでいて狂気を孕む。
「かおる」
いなりは白梅を睨みながら、僕に数枚のお札を渡す。その目はすでに臨戦態勢であり、兎を狩る狐そのものだった。
「お札の使い方は契約の応用でわしから引き出せ。ここから先はわしでも守りきることができぬかも知れぬ」
「俺も、にゃんとかしてみるけど…守りきれにゃいかも知れない…それほどに、今の白梅は危にゃいにゃ」
たまも両手に握り拳を作り、今にも飛び出そうとしていた。ぎらつかせた目は狩猟者の証だ。だが、体は武者震いを起こしていた。
「…怖がってるの?……大丈夫…2人とも…優しく…壊してあげる…」
白梅が文字通り浮いた。まるで自然に、当然のごとく、白梅は浮遊した。僕はようやく金縛りから解かれた。その手にお札。体はたまとの契約によりいつもよりも軽く感じる。大丈夫。僕も戦える。
「…助ける。絶対に助けてみせる!」
僕は月に向かって吼えた。今ここに、月下の宴が始まる。

月が、紅い。
町の片隅で私は目覚める。殻を取っているから、今は黒百合だ。
「んふっ…激しく動くと…んあぅ」
胎内でアレが動く。私はそのたびに甘い声を出してしまう。忌まわしくも愛らしいわが子供。自分を壊す元凶を孕んでいると言う事実。滑稽でしかなかった。
「あ、パンツ濡れてる…感じてるのか…」
つい秘所を触ってしまった。ぬるっとしたそこは、官能の証を垂れ流していた。壁に手を掛け、立ち上がる。おそらく白梅はあの公園だろう。そこまで歩かないといけない。それまでに破水しそうで怖い。臨月なのにお腹が膨らまないなんてどうかしている。
「まあ、私自体おかしいのだしね」
1人自嘲した。白梅という存在の陰。彼が切り捨てた存在そのもの。そんな私は、元から歪でおかしいのだ。
「待っててね。今、行くから…」
ゆっくりと歩を進める。自分がいる場所を目指して。人形は静かに動きはじめる。いずれ来る終わりに向かって。

空と陸。同じ場所、同じ陽だまりにいた4人はこうして別れ、戦い始める。
「…結晶庭園…」
それが白梅の攻撃宣言。白梅の周囲に紫水晶の結晶が数多出現する。怪しく輝くそれは、僕の目を釘付けにした。
「かおる!下!」
いなりの声で咄嗟に上にジャンプする。たまといなりも同様にジャンプした。今までいた地面から、白梅の周囲を漂う紫水晶を数倍大きくしたものが飛び出す。それは滞空している僕の足ぎりぎりまで届いた。僕は安全な地面に着地すると、再度白梅を見る。白梅は残念そうに顔を俯かせると、今度は周囲に浮いた紫水晶の結晶を無差別に放つ。それはまるで弾幕だった。まともなことでは避けられない。
「2連式札術…炎陣風防式!」
白梅から渡されたお札から2枚選び、空中に投げる。それは炎の膜として前面に展開された。結晶は灼熱の炎に解かされる。
「我慢するにゃ!白梅ッ!」
たまは夜叉のときと同じ、いやそれ以上の速度で白梅に肉薄する。結晶を足場にしているようだ。神速であるからなせる技だといえる。手だけ猫のように爪が鋭く肉球のあるものに変わっていた。
「…たま!…近づいても無駄…」
白梅はすでに次の技の予備動作に入っていた。両手を胸の前で祈る様に組む。だが、たまはそれさえも無視して突撃する。先に準備ができたのは白梅だった。両手を前に出し、まるで走ってくる相手を抱きとめるようなポーズをとる。すると、両手の間からサッカーボール大の黒い球体が表れる。それは中央を除き闇だけで構成されており、中央にだけ光が宿っていた。
「…時は謳う…死者に眠りを…生者に終焉を…さあ…生者よ無に返れ…黄泉路返し…」
球体から2つの光が螺旋のように飛ぶ。1つは光。もう1つは闇。光に当たったものは時が進み、闇に当たったものは時が戻る。相反する作用により捻れが生じ、世界の壁が壊れる。世界を構成する混沌が垣間見える。
「たまは!?」
「ここにいるにゃ」
消えたたまを捜そうとしたとき、隣から声がした。そこには息を切らしたたまが立っていた。空中を蹴るという常識外れの技をしてきたとのこと。それでやっと回避したそうだが、服の1部がすでに当たっており、劣化して溶けたようになっている。解けたズボンからおむつがちらと見えていた。
「俺も、あんにゃ、白梅は、初めてにゃ、本気出した、白梅が、こんなに怖い、にゃんて」
激しく肩を上下しながら話すたま。かなりのオーバーワークのようだ。上空では白梅がもう1度紫水晶の結晶を生み出していた。
「はああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
その更に上。雄叫びを上げながら刀を振り下ろすいなりがいた。白梅はそちらに向かって全ての結晶を放つ。いなりはそれを見越してか2枚のお札を前方に投げる。お札は炎に変わり、いなりを守る膜になる。紫水晶は炎に阻まれて中心のいなりまで届かない。
「灸をすえるぞ!白梅!」
炎の膜はなくなる。代わりに刀は炎を纏い、白梅に迫る。白梅はそれを見てまだ笑みを崩さない。
「…闇に沈み…光に堕ちろ…冥府の眼(まなこ)…」
白梅はいなりの目の前に大きな魔法陣を展開する。ダビデの星と円を組み合わせた幾何学紋様。円の部分は2重円になっており、間には見たことない様な文字で文章らしきものが書かれている。そして、中央のダビデの更に中央に瞳を表す紋様が描かれていた。大きさは直径50mほどの巨大なものだ。
「…門は開く…冥府への門…その先…あるのは…終焉…」
こちらからはよくわからないが、いなりの顔は大きく変化していた。雄雄しいものから焦りのあるものへ。僕らから見えないところで何かあるのは明らかだった。
「行くよ!たま!」
「んにゃ!」
たまとともに強く地面を蹴る。流星のごとく空を切る。いなりを援護するため。白梅の元へ。

まさしくそれは次元違いの強さだった。薫は気づいていないだろう。いなりが見ている世界は地獄そのものだった。白梅が呼び出したのはまさしく冥府へ繋がる門だ。瞳の奥に多くの魑魅魍魎が湧いていた。それは仲間を欲しがって蠢く。白梅は憐れなものを見る目でいなりを見つめていた。
「くうっ…」
いなりは振り下ろした刀の勢いを殺し、それを反動にして浮遊する。堕ちたら戻れないのは目に見えていた。それができなくなると今度はお札で砂の壁を形成して、それを足場にする。少ししか保ちそうにないが、それでもないよりはましだろう。
「…さあ…お姉ちゃん…」
白梅が誘惑するような声で囁きかける。いなりは咄嗟に横に跳んだ。白梅の声には猛毒まで含まれていた。相手を支配するクラスの催眠効果を持っている。いなりはそれを感じ取り効果が及ぶ前に逃げ出したのだ。白梅はいなりを追おうと動こうとして、自分に近づいてくるたまに、薫に気づいた。
「…もう…薫ったら…イケナイ…」
白梅は興味をなくしたようにいなりへの追撃を止め、振り返り下から来る2人に照準を合わせる。
「…時は謳う…死者に眠りを…生者に終焉を…さあ…生者よ無に返れ…黄泉路返し…」
「来るにゃ!」
白梅は視線を薫だけに向ける。その目は愛しき人に向ける情愛。顔は無邪気な笑顔。それは恋する乙女そのものだった。手の間の黒い球体を除けば。そして、攻撃が放たれる。
「すまんにゃ薫」
たまは薫の体を踏み台にした。これによりお互い回避に成功する。薫は地面にゆっくりと落ちてゆく。たまは更なる前方へ。白梅の顔は、たまへの憎悪に変わった。
「…蹴ったね…たま…薫…蹴ったね…」
たまの鋭い爪は白梅まで届く。頬を掠めた爪は、白梅の肌を赤く染める血を流させた。
「…モウ…許サナイ…」
白梅のいた地面からいくつもの黒い手が伸びる。それは影がなくのっぺりとしていた。手はたまを捕獲すると、白梅の目の前まで連れて行く。白梅はその黒い手を自身は動かずに操る。
「…白梅。どうして」
たまが話しているのを無視して、黒い手がたまの体を貫いた。無慈悲に。作業的に。いくつもの黒い手が高速で正確に重ならない様に放たれる。たまは黒い手に磔にされた生贄だった。口から溢れる血。それでも強い光は失わない。
「…コレデ…完成…」
最後の黒い手が心臓を貫いた。これで完全に死亡する。だが、まだ余白があった。それを利用して、たまは白梅に言葉を残す。
「…どうして…憎いのに…泣いているにゃ?…」
たまの処刑は、こうして終えた。あっという間の出来事で、誰もそれを止めることはできなかった。彼を照らす月の影は、大輪の花のようだった。光の加減でこう見えるのだろう。戦場に似つかわしくない大輪の花。
「…光陰…月光華…」
白梅が手向けとした花だった。光陰たる所以は、光が当たらないとこれが華だと気づけないから。涙が風に乗る。顔には冷たい笑み。アンバランスさが、際立つ光景だった。白梅はたまの死体には目もくれず、いなりに対し狙いを定める。いなりは地面に着地すると、4枚のお札を白梅に向けて投げた。
「4連式札術。朱雀黎明!」
お札は炎になり、それが鳥の形を形成する。白梅はそれを黒い手で防ぐ。黒い手は解けたが、火の鳥は消滅した。が、すでに先ほどの場所にいなりは居なかった。白梅は黒い手を滞空させた後、周囲を見渡す。だが、いなりの姿は見当たらない。
「こっちじゃ…たわけが」
その声は、彼の足元から聞こえる。いなりは彼の直下、黒い手の発生地点にいた。1度いなりは空のたまを見てから歯噛みし、自らが持つ刀で全ての黒い手を切った。これにより黒い手は霧散する。白梅はそれでも焦りすらしていない。ただ、嘲るように笑った後、また紫水晶を生み出す。
「もうその手は食わんぞ!」
いなりは地面を強く蹴る。それから何枚ものお札で砂の足場を作り、それを蹴ることで空中に達する。いなりは水晶を踏み台にして、神速に到達した。月光が刀に反射する。刀はそのまま白梅を串刺しにした…様に見えた。
串刺しにしたのは彼が着ていた服だけだった。中身はすでに消え失せている。
「…こちらです…姉さん…」
白梅はすでにいなりの後ろに回りこんでいた。おむつと下着と言う恥ずかしい格好だが、彼はそれを気にしていないようだ。白梅の右手には正八面体の青紫色の結晶が、右回転でくるくると廻っていた。いなりは尻尾でバランスをとって空中で振り向き、お札を1枚自分の前に出した。
「防御札術式…宵闇の蜃気楼!」
「…全て…閉じよ…蛇蝎…封印…」
同時に技が放たれた。いなりの姿が1度歪む。白梅はそれを無視して正八面体を巨大化させ、その中にいなりを拘束する。いなりの焦る顔が見える。白梅はそれを見て喜びながら両手に自らの得物を呼び出す。それは扇子。2つの扇子で、骨の部分の先端部にはピアノ線ほどの強度を持った霊術式糸と呼ばれる糸が伸びていた。
「…姉さん…弔い…舞…見せます…フフフ…」
白梅が、舞う。そのとき、薫はようやく地面についた。白梅は舞うたびに、糸をいなりの体に絡ませていく。いなりは正八面体の中で動けなくなっていた。
「…これが…常夜の舞…」
最後のフィニッシュと同時に糸がいなりの体を粉々に切り裂いた。薫はようやくムーブメントに入るところだった。それほど早く、そして美しい舞だった。
「白梅…お主…本気なんじゃな…」
死んだはずのいなりの声。粉々になったいなりは砂の固まりになっていく。そして、浮遊できないはずのいなりが、空中で刀を構えその舞を眺めていた。その目はすでに相手を敵と認識した目だ。白梅は更に笑みを歪ませる。「…そう…フフフ…うん…」と何度も頷きながら言う。いなりは1枚のお札を大事そうに取り出す。それから、動きを止めている薫にテレパスで語り掛ける。
――よく、見ておれ
――いなり、どうする気?
薫は困惑した気持ちで返す。いなりはそれに対し、答えることをしなかった。テレパスを切り、お札に書かれた術を詠む。
「その力は天を知り、地を知る。わが心の鎖、打ち砕け」
いなりはそれだけ言うと、お札はいなりの体に溶けていった。いなりは強い視線を白梅に送る。そして、話しかける。
「お主が本気と言うなら…わしも本気を出そう…礼式…開放!」
白梅は手に握る扇子を持つ力を強めた。凄まじき妖気。普通の人間であれば中てられただけで卒倒するだろう。いなりの周りを風が包む。白梅はただ、その様子を見舞っているだけだった。薫はもう蚊帳の外である。いや、立ち入ることさえ許されていない。風が無くなったとき、
いなりは今まで出1度も見たことない姿になっていた。
まず、服は初めて会った時の様な巫女服であった。足には草履。手には天翔刀。年齢的には18歳ほど。背中を覆う尻尾は9つで、大きい翼のように揺れる。それは全て手と同じほどの稼動域を持ち、彼女をサポートする存在となる。何より大きな耳が、狐であることを物語っていた。足元には炎の蛇がうねるように動いているのが見える。
「…お姉ちゃん…ううん…『小野雅天松原稲荷命』…」
白梅は右手に赤い正六面体の結晶を出す。それを強く握った。結晶はそれに呼応して姿を変え、最終的には小刀になる。全てが赤で構成された小刀。それは、血が固まってできたように見えた。
「…サア…宴ノ…始マリダ…」
「…我が力は全て主のために!」
2つの人型が視界から消える。神速の世界相手で、それを追跡するのは不可能だ。もう人間の動体視力を超えた次元で2人は戦っていた。1つの接触で20の技を繰り出す。それを6回も繰り返していた。7回目の接触でパワーの勝るいなりが白梅を上空に吹き飛ばす。白梅は空中で体勢を整えると、巨大な魔法陣を展開する。
「…永久の静寂…目覚めよ…」
複雑で巨大な幾何学模様が夜空をキャンパスに描かれる。幾重にも円と多角形を組み合わせたそれは、戦場に似合わないほど美しかった。
「…貪れ…蝕め…望むままに…」
その上で白梅が詠唱する。いなりは風を切り裂く速度で白梅の元に向かう。右手の天翔刀をお札に戻し、左手にあるお札を詠み上げる。
「光を満たせ。炎を満たせ。我を満たせ。その全てをここに捧げん!」
お札が巨大な両刃の剣になる。剣は炎を纏い、柄の部分には儀礼の言葉が書かれていた。長さは天翔刀の2倍。取り回すだけで厄介だろう。いなりの本来の武装にして、宝具。礼装にして概念の顕現。武装名、炎産霊(ほむすび)。
「…狂蝕…黒玉呪…」
魔法陣から巨大な黒い玉が現れた。それは地面に向けて放たれる。いなりはその前に白梅の上を取っていた。その大きな剣が振り下ろされた。白梅は哂いながらその攻撃を避けずに受け止めた…様に見えた。
白梅はすでにそこにはいなかった。残像が消える。白梅はいなりの後ろで怪しい笑みを浮かべて立っていた。耳元に口を近づけ、悪魔の囁きを行った。
「…早クシナイト…薫…死ンジャウヨ?…」
そう、あの攻撃はいなりに向けて放たれたものではなかった。真っ直ぐ、いなりの先の地面でこの戦いを見続けていた薫に向けて放たれていたのだ。まともな人間では、いや異能者であっても逃げられない大きさの攻撃だ。薫では到底回避できない。
「…かおる!」
いなりは剣をすぐに収めて、お札に戻しながら光速で薫の元に向かう。薫は自らにその攻撃が向けられていると気づいていても、金縛りにあったように動けない。彼の足元には白梅が展開した拘束呪術が掛けられていたから。
「僕の使える防御術式を最大展開しないと…」
いなりから渡されたお札を全て空中に散りばめた。そして、術の詠唱を行う。
「全ての原始にして、終焉たる炎よ。その持つ力全てを我に貸し給え。全てのものを焼き尽くし、それを以って守りとする。防御術式札連番28.煉獄天蓋!」
薫の防御術式がドーム状に展開した。白梅の放った黒い玉と接触する。だが、それも徒労に終わる。黒い玉は炎をすらも飲み込んだ。あれは、「寛容」の顕現。全てを受け入れる存在であり、全てを飲み込む存在。故に、相反するものの顕現でないと、打ち消すことは不可能。刻一刻と迫る死の宣告。それを遮るために、九尾の狐が舞い降りた。
「概念開放。裁きの権化…神の体現…それは…『天罰』!」
両刃の大剣が、啼く。いなりはお腹に空気を溜め込み、気を集中させる。
概念と概念が今、衝突した。
そこにあるのは超越者たちの戦い。剣で黒い玉を受け止めながらいなりは薫に言葉を残す。
「…このままじゃと相打ちじゃな…スマン…後は任せる…泣いている子を救ってやれ…『次の』わしによろしくな…」
いなりは自らの全てを剣にこめた。黒い玉が剣に切られる。同時に、剣とその持ち主は透明になっていき、最終的には消滅した。黒い玉も真っ二つにされた後に消滅する。
「…すまない…いなり…たま…僕は…」
するりと降りてくる白梅。目の前に滞空する彼は、とても憎く見えただろう。なぜならにこりと、優しげに微笑むから。屈託のないそれは、薫を逆撫でするには十分だった。
「白梅ぇぇぇぇぇぇッッッッ!!!!」
薫は握り拳を作り白梅に殴りかかる。白梅はそれを大きく腕を広げて受け入れようとしていた。その目に涙を溜めて。そう、彼は泣いていた。たまを殺したときも。いなりに攻撃したときも。今、薫に殴られようとするそのときも。狂気の中で、彼は泣いていたのだ。大切なもの全て壊してしまったから。せめて、その報いを受けようとこうして彼の拳を受け入れる。
だが、それを彼のナカの『化け物』は、許しはしなかった。
――コレデ、満足シタ…サア、オ前モ…我ガ血肉トナレ…
薫の脳内に、声が響いた。薫は拳を止める。白梅は何故殴らないのかと責める目をしていた。もう遅い。その一瞬の隙を『ソレ』は逃さなかった。
白梅の体から、『化け物』が生まれた。ごふりと血を吐き出す白梅。白い体が紅に染まる。薫はただ呆然とそれを見ていた。内側から殺される苦しみを味わいながら、白梅は最後の言葉を薫に残す。
「…まだ…足りない…きっと…鍵…ある…だから…」
――絶望しないで。そして、逃げないで…信じてるから
彼を狂わした原因が、この世に生を受けた。それは、白梅の絶命を意味する。『化け物』は一際大きな雄叫びを天に捧げる。それは自らを鼓舞するためか。それとも、獣である証か。薫は生まれてきたそいつに喰い殺される。絶命する直前、薫は『化け物』の中を見た。
それは、幾億もの生き物が持つ『悪』そのものだった。
もはや毒としか言いようもないそれは、死にかけの薫でさえ病ませそうなほどに強烈だった。薫はそのとき全てを悟った。それと同時に白梅への憎しみも消えた。彼が思うのは次なること。そう、彼が言う鍵とは何か。それさえ見つければ、きっと大きく前へ進むことができるだろう。
全ては、泣いている子供を救うために。

同日同時刻。黒百合は最後の鍵を見つける。彼女が探していたもの。彼女の存在理由。そう、白梅が捨てたもの…それは…

冷たく笑う月と、『永遠』の森。その先にある場所で、『私』は待つ。
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